今回は、『南京の真実』パート2。
じ・字が多い…^^;。絵が必要最低限しか描かれていなくてもはや「漫画」といえるか
どうかギリギリの所かな。コマは割ってあるけど、フキダシが無かったり、
あっても1つ2つだけ。後は地の文となっていて、字がメインで絵は挿し絵状態。
漫画の危機だ!
さすがにここまで来ると、庶民に届く言葉で伝えようとしても、小難しく
なるのは避けられないのだろうか?いや、小林の力はこんなものでは無いはずだ!
59章と比べると、今回は明らかに物語やカタルシスが感じられない。
ラーベという人物像がいまいち不鮮明だからだろう。小林自身がこの人物の
キャラクターをつかみ切れていないのが原因の様な気がする。
今回のゴーマン
「…「虐殺無かった派」の執念の研究も右翼とレッテル貼りせずに一度
読んでみるべきだ」
今回は、今まで押せ押せで反発が高まってきた所を、一歩引くことによって読者の
体勢を崩す回^^;。
「社長はちゃーんとおまえらの異常性をゆるしてやっとるぞ感謝しろ!
なーーっはっはっはっ…」
…と、異常な笑い声を上げる小林。深い^^;。
「わしのような職業の者にはいちいち家に帰ってメシ食う必要もなくて
こんな店(マクドナルド等)ってすごく便利」
不老不死のメニュー(「旧ゴーマニズム宣言」第75章)は、どうしたんだ?^^;
その後、アメリカからの合理主義に犯された親が子供を叱れない現状を愁う。
「今からでも大人を演ってみるしかないのだ!」
そして、アメリカ合理主義のファミレス・コンビニ・ファーストフードについて
日本人が創意工夫を加え、独自のものに作り替えているという。この辺りは、
当たり前の事ですな。同じキオスクでも、日本とアメリカと英国とフィリピンでは
品揃えからサービスまで全然別のものになる。アメリカのコンビニにはハンバーガー
が売っているが、日本のコンビニにはおでんが売っている。そういう事だ。
マニュアルの無いおばちゃんの中に愛想が悪い人がいるのも当たり前。
「おせっかいが大和魂」
「大きなお世話が大和魂」
「と言えるかもしれない」
これが大和魂だとして、それに安心できる人と居心地悪く感じる人がいると思う。
居心地悪く感じる人を、「日本人の心を忘れた非国民!」という論法で非難するので
あれば、私は支持できない。
又、この種の「お節介」は「寄らば大樹の影」「村八分」という日本人の悪い部分
の元凶でもある事に気を付けなければならないと思う。
「甘えていると笑わば笑え!」
「わしはマニュアルで語りつくせない日本人の奉仕の精神が好き!!」
小林の好みを言っています。この態度は、正しい。
「自分にとって、これは好き!これは、嫌い!」。後は、それを読んだ読者が
それを支持するかしないかの問題である。
今回のゴーマン
「昔は「消費できれば自立」ではなかったはずだ…(中略)」
今回は、官民接待について。
「(民は官僚について)どうせ叩けばいいとしか思ってないのだ」
「自分がやるかやれるやつを育てる方法を考えるか
…佐高も一般市民もそこまで考えてない」
確かに。
小林の考えは…、おいおい明らかになっていくでしょう。
今までの言動も、このラインの伏線でしょうね。
「卑しすぎる」
「しかし百歩…いや一万歩譲って卑しさに目をつぶっても…」
「職能が優れていたならよかったのだ!」
まぁ、そうでしょうね。社会が安定していて皆がそこそこ豊かなままなら
多少の不祥事にも民は目くじら立てなかったでしょうが、現状は
経済から外交からぼろぼろ。それでいて、自己権益に汲々としている。
これでは叩かれて当たり前。
今回のゴーマン
いやー、今号のSAPIOの「提起」は
インパクトありましたねぇ〜。
さすがに、私もちょっと怖じ気づいてしまいました^^;。文部省が「北風と太陽」を
例に上げてますが、そんな感じ。
こういう提起をするということ自体は、なかなかやるなと思った。
後、業田 良家の「Tip offシアター」が
「ど忘れ日本政治」に改題になりました。
最初、「なんじゃ!?このタイトルは?」と思ったけど、単行本の帯の
「わが国の政治は国民の忘却の上に成り立っている」(業田 良家)という
キャッチコピーを見て納得。
で、本題。
今回は、須磨・小学生殺害事件について
パート3。そして、ジャーナリズム批判。
何故か、今回から表記が「酒鬼薔薇」から「少年A」に変わった。
まず、少年法の加害者保護の立場から名前・写真を出せない事を批判。
「少年法の精神」は「殺人幇助の精神」であると言い、
「ついに少年は"少年法"と"人権"を盾に殺人ゲームを楽しみ始めた!」
と、過激に言い切る。
そして、犯人の写真を載せた「フォーカス」と供述調書を載せた「文藝春秋」について、
「少年法がどーだか知らないがわしの道徳感からいけば」
(法律について言及するつもりはないらしい。あくまで、小林の道徳感が基準。)
「『フォーカス』がOKで『文藝春秋』がダメなのである」
だそうだ。
顔写真掲載がOKな理由は、被害者側からの「見せしめ」「報復」だから。
これは、犯罪に対しては、法律で「社会的に」罰するのではなく私刑(リンチ)を
認めようという事だろうか?昔の村八分とか晒し首とかですね。賛同できん。
次に、供述調書の公開が駄目な理由。
「その理由は1つ『被害者の許可』を取ってないからだ!」
以後、「自分が被害者の遺族になった場合」を考えてそれでも、
「あなたの娘さんの悲惨な最期を克明に描き出した供述調書」
を公開するのか?と問い詰める。
ただ、この論理でいくと、例えば「淳君が頭部を切断されて校門に置かれた」
「地下鉄にサリンが撒かれて、多数の死者が出た」という新聞報道自体も
遺族の許可が要る様な気がします。
ジャーナリストが「商売優先」なのは今に始まったことではないですしね。
もともと「畜生道」でしょう。
大切なのは、大義名分として「正義」を振りかざすならともかく、
そんな自分を間違っても本気で「正義」だなどと思わないことでしょう。
そして、我々読者は、
「ジャーナリズムの正義などに絶対惑わされてはならない」。
「…よく読むよなァちょっと前にも『マーダー・ケースブック』とか、殺人者の
本が流行ってたけど…」。
「気が変なんじゃないのみんな?」。
「正常だと思ってる?」。
「そこまで惨殺シーンに魅せられるなんて…」。
これは、小林の趣味が出てます。好き嫌いの問題ですね。小林は、こういうのが好き
では無いのでしょう。
ホラー映画が好きな人もいれば嫌いな人も居ますからね。ホラー映画が好きな人が
「異常」って訳では無いでしょう。
昔に比べて、「猟奇殺人に関心を持つ人が増えている」のだとすれば、その理由について考えてみるのは面白いかもしれませんが。
「共同体崩壊 関係性の切れた個は人間が獣になりやすく発狂しやすいだけだ」。
さらりと、結構重要なことを言ってます^^;。「共同体崩壊」=「発狂しやすい」と
言ってます^^;。
「わしもすでに第48章と第58章で描いたけど …」。
細かい突っ込みですが、第48章と第53章です^^;。誤植でしょうが。
「Aくんの異常性は Aくんにさえわからない」。
ここだけ、「Aくん」と言ってます。宮崎勤幼女連続殺人事件の時にも「宮崎クン」
「M君」という犯人に親近感を持った言い方をする人がいましたが、小林が
今回の犯人に親近感を持って居るとは思えないので、非常に違和感があった。
作家の想像力で少年Aに感情移入していたので、つい「Aくん」と書いてしまったのかな?
「大体…「我が子もあのような犯罪をやらかすのでは…」などと恐れている親なんかもう手遅れだ」。
「今さらそんな恐れを抱くような育て方しかしてこなかったのならもうあとは神に祈っとくしかない」。
「運がよけりゃ人殺しせず大人になるだろう」。
この辺は、多分そうでしょう。ただ、運良く大人になっても大人になってから
犯罪を起こすかも知れんけど^^;
「わしは漫画家言ってることが学説にもとづいてない」。
「どこぞの「大学教授」という肩書きでニュース番組で解説するタマじゃない」
「わしは漫画家権威がない」。
「「塵芥川賞作家」とかいう肩書きで権威ある活字雑誌で一節ぶつステータスもない」
相変わらず宮台真司が嫌いなようです。どんどん顔がディフォルメされてきました。
宮台の似顔絵の遍歴を眺めると面白そう^^;。
この2コマの小林の自画像も、とても好きです。今までの自画像で一番好きかもしれない。
今回のゴーマン