ゴーマニズム宣言の感想

(第60章〜第64章)

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mark 『第60章 『南京の真実』は真実ではない』
(「SAPIO」 2月4日号)

今回は、『南京の真実』パート2。

じ・字が多い…^^;。絵が必要最低限しか描かれていなくてもはや「漫画」といえるか どうかギリギリの所かな。コマは割ってあるけど、フキダシが無かったり、 あっても1つ2つだけ。後は地の文となっていて、字がメインで絵は挿し絵状態。 漫画の危機だ!
さすがにここまで来ると、庶民に届く言葉で伝えようとしても、小難しく なるのは避けられないのだろうか?いや、小林の力はこんなものでは無いはずだ! 59章と比べると、今回は明らかに物語やカタルシスが感じられない。 ラーベという人物像がいまいち不鮮明だからだろう。小林自身がこの人物の キャラクターをつかみ切れていないのが原因の様な気がする。

今回のゴーマン
…「虐殺無かった派」の執念の研究も右翼とレッテル貼りせずに一度 読んでみるべきだ

ごーまんかましてよかですか?
イメージ操作だけでやられちゃうのはオウム信者と同じ純粋まっすぐのアホタレだ!
したたかになれ!ツッコミを入れろ!
南京事件に関してはあと1回メディアリテラシーの問題としてやるかもしれん!
小林の手のひらに乗っている「純粋まっすぐ」君達の絵が、妙に艶めかしく印象に残る。



mark 『第61章 自由・平等のファミレス・コンビニ・ファーストフード』
(「SAPIO」 2月25日号)

今回は、今まで押せ押せで反発が高まってきた所を、一歩引くことによって読者の 体勢を崩す回^^;。

社長はちゃーんとおまえらの異常性をゆるしてやっとるぞ感謝しろ! なーーっはっはっはっ…
…と、異常な笑い声を上げる小林。深い^^;。
わしのような職業の者にはいちいち家に帰ってメシ食う必要もなくて こんな店(マクドナルド等)ってすごく便利
不老不死のメニュー(「旧ゴーマニズム宣言」第75章)は、どうしたんだ?^^;

その後、アメリカからの合理主義に犯された親が子供を叱れない現状を愁う。
今からでも大人を演ってみるしかないのだ!

そして、アメリカ合理主義のファミレス・コンビニ・ファーストフードについて 日本人が創意工夫を加え、独自のものに作り替えているという。この辺りは、 当たり前の事ですな。同じキオスクでも、日本とアメリカと英国とフィリピンでは 品揃えからサービスまで全然別のものになる。アメリカのコンビニにはハンバーガー が売っているが、日本のコンビニにはおでんが売っている。そういう事だ。 マニュアルの無いおばちゃんの中に愛想が悪い人がいるのも当たり前。

おせっかいが大和魂
大きなお世話が大和魂
と言えるかもしれない
これが大和魂だとして、それに安心できる人と居心地悪く感じる人がいると思う。 居心地悪く感じる人を、「日本人の心を忘れた非国民!」という論法で非難するので あれば、私は支持できない。
又、この種の「お節介」は「寄らば大樹の影」「村八分」という日本人の悪い部分 の元凶でもある事に気を付けなければならないと思う。

甘えていると笑わば笑え!
わしはマニュアルで語りつくせない日本人の奉仕の精神が好き!!
小林の好みを言っています。この態度は、正しい。
「自分にとって、これは好き!これは、嫌い!」。後は、それを読んだ読者が それを支持するかしないかの問題である。

今回のゴーマン
昔は「消費できれば自立」ではなかったはずだ…(中略)

ごーまんかましてよかですか?
まず意識することが抵抗の拠点だ
アメリカニズムを意識しろ
大人を演じることからやり直しだ!
無自覚はいかんと言うことで。

(関連)
ゴーマニズム宣言『第75章 不老不死の秘密』
ゴーマニズム宣言『第74章 ブルセラと女子高生売春』



mark 『第62章 官民接待 VS 民民接待』
(「SAPIO」 3月11日号)

今回は、官民接待について。

(民は官僚について)どうせ叩けばいいとしか思ってないのだ
自分がやるかやれるやつを育てる方法を考えるか …佐高も一般市民もそこまで考えてない
確かに。
小林の考えは…、おいおい明らかになっていくでしょう。 今までの言動も、このラインの伏線でしょうね。

卑しすぎる
しかし百歩…いや一万歩譲って卑しさに目をつぶっても…
職能が優れていたならよかったのだ!
まぁ、そうでしょうね。社会が安定していて皆がそこそこ豊かなままなら 多少の不祥事にも民は目くじら立てなかったでしょうが、現状は 経済から外交からぼろぼろ。それでいて、自己権益に汲々としている。 これでは叩かれて当たり前。

今回のゴーマン

ごーまんかましてよかですか?
卑しい民が居丈高に官を批判するな
批判しながら己れの卑しさを恥じて糺せ!
自己を省みつつ、批判しろ。という事でしょうね。
自己を省みない批判はみっともないですからね。

(おまけ)
月2回では描かねばならぬことが描ききれないから2本立てを増やしてくれという 要求をして4月から16ページを4回やらせてくれることになった…(後略)
期待。…しかし、この辺は「小林が我侭言ってページ数を増やすように要求した!」 と言って叩かれないようにするための対策のようですね^^;。色々と大変だぁ。



mark 『第63章 自分のために闘う寂しさ』
(「SAPIO」 3月25日号)
感想のメール

今回は、「国のために」闘う事について。

まず、今回の長野五輪に絡めて小林が実は五輪の金メダリストよりもスポーツが 得意であった!…という大法螺を吹く。
うそつけって?
いや、信じてくれなくても結構(クク)
わしは「人に信じてもらうため」にウィンタースポーツやってんじゃないんだよ
自分のためにやってんだ
後の展開から、これは逆説的に「自分のためだけってのは淋しいもんなんだよ」という 事を伝えようとしている訳だが…。

因みに私は、スポーツは自分がするのは好きですが見るのは嫌いです。他人が サッカーをしているのを眺めているぐらいなら、自分がサッカーした方が楽しい。 マラソンを一生懸命走っているのを、ラーメン食べながらボーと眺めるくらいなら 自分が2時間走った方が気分が爽快になる。スポーツ選手がスポーツをするのは 別に構わないけど、それを見て、自分は何もしない癖に無責任に熱狂するファン の心理が私にはよく分からない。

だから、五輪選手が「自分のためにやった」というのは納得できるし、別に 「目立ちたいから五輪に出た」でも「苦労させた母のために」でも 「応援してくれたファンのために」頑張ったのでも構わないと思うし納得できる。

問題は、「たかが五輪」程度に国を挙げて熱狂するファンの方にある。と思う。
なんでスポーツ大会でこんなに金が動くんだ!?…理解できん。

ただな…漫画は違う 漫画は「読者のため」描いてんだ
(中略)
表現者はみんなそうだ
わかってくれるはずのだれかのために自分をさらす
その通りでしょう。で、この「誰か」ですが…

わしはフランス人やドイツ人やギニア人やブルンジ人やアンティグア・バーブーダ人のためには描いてない
日本人のために描いている 日本国民のために つまり国のために描いてるんだね
小林は、「国のために」『ゴーマニズム宣言』を描いてるそうです^^;。 知らなかった^^;。
ただ、これはたまたま小林が「国のために」漫画を描いているだけで、他の漫画家は それぞれ違うでしょうね。逆に自分が面白いと思うものを「面白い」と感じてくれる 人がいれば、地球の裏側の人のためにだって描くでしょう。

以前にも書いたけど、どうも小林は「国のため」にこだわりすぎている様な気がする。 少なくとも「家族」「友人」「世界」「宇宙」よりも「国」が上に来る説得力に 欠けると思う。

ふるさとは? 地球ーーっ
ふるさとは? 地球ーーっ
戦時中ニューギニアでふるさとの雪を思いながらわしの祖父の芝居を 見ていた兵隊達に聞いてみろ
ふるさとは?青森!としか言わねーよ
彼等のふるさとは、青森ですね。「日本」ではない。青森の人が大阪や沖縄に郷愁や 思い出を感じるとは思えない。例え「日本に帰りたい」と言ったとしても、そこで 思い浮かべる風景は青森の物でしょうね。
「故郷で苦労しているおっかあのために」戦ったんでしょう。「天皇陛下」なんて 会ったことも無い人のためでは無かったと思う。

後、「兵隊さんが良い人」だから、「あの戦争は正しい」事にはならない。 いくらオウムの信者が「純粋で真っ直ぐ」だからといって、サリン事件が 「正しい」訳では無いのと同じ。
当時の田舎の人々なんて本当に「純粋で真っ直ぐてお人好し」で、簡単に 騙せたと思う。情報操作なんて今よりも簡単だったし。
遺族としては、「あの戦争は間違いだった」「あなたの息子は無駄死にしたのだ!」と言われるよりも、「英霊」として「国のために死んだ」と言われた方が 気持ちを整理できるという事は分かるのだが…。

で、今の若者が「ふるさと、地球」と感じることに何か問題があるのだろうか? 昔と今とでは、交通手段・情報伝達全てが桁違いである。 人々の身体感覚が広がっているのに、昔の人が「ふるさと、青森」としか言わないからと言って、現代でもそうだという論拠にはならない。
手塚治虫も「宇宙ステーションで生まれ、いつも地球 -ガラスのように壊れ易い青い惑星- を見て暮らす「宇宙人」は、我々とは全く違う感覚を地球に持つ事になるだろう」と 予言しています。

結論:
・昔の人は、「国」なんて大きな物を感じることは出来なかった。
・これからの人々は、「地球」を感じ取れるようになるかも知れない(もちろん、砂漠のミミズまでは感じ取れない)。…し、ならないかも知れない^^;

今回のゴーマン
ごーまんかましてよかですか?
「自分のために」しか生きられないのも寂しいぞ
「だれかのために」生きようよ

人間は、結局「自分のため」に生きてます。でも、「それだけ」では寂しい。 その通りだと思います。だから、「誰かのために(も)生きようよ」←「も」が あれば、納得できます。
「誰かのために生きようよ」だと、危険な香りが…^^;

(おまけ)
・P69欄外のコメント
…授賞式の時、会場が一丸となって君が代を歌っていた。ここぞという時に日本が勝った、という感動の中では、あんなに自然に全員で国家を歌いたくなるものだったのか、と、わしは目を見張った。

高校野球で、全員一丸となって勝った時は地元応援団は校歌を大合唱するでしょうし、 五輪のその場面でも、「君が代」ではなくて「乾杯」が流れたら皆んなで「乾杯」を大合唱していたでしょう。私は、興味無かったので見てないのでもちろん歌っていない。…そういう物ではないのか?

更に言えば、共通の目的を作り皆の感情を揺さぶり、興奮状態にして連帯感を極度に 高めて人格を変えるのが「自己改造セミナー」の方法論ですね。
ナチスドイツも、五輪を国家高揚の道具として使いましたし…。

・リビジョニスト(=revisionist:修正主義者)=(日本の歴史)修正主義者って事かな?

(関連)
新・ゴーマニズム宣言『第34章 南の島に雪が降る』



mark 『第64章 少年Aをめぐる報道と倫理』
(「SAPIO」 4月8日号)

いやー、今号のSAPIOの「提起」は インパクトありましたねぇ〜。
さすがに、私もちょっと怖じ気づいてしまいました^^;。文部省が「北風と太陽」を 例に上げてますが、そんな感じ。 こういう提起をするということ自体は、なかなかやるなと思った。

後、業田 良家の「Tip offシアター」が 「ど忘れ日本政治」に改題になりました。
最初、「なんじゃ!?このタイトルは?」と思ったけど、単行本の帯の 「わが国の政治は国民の忘却の上に成り立っている」(業田 良家)という キャッチコピーを見て納得。

で、本題。

今回は、須磨・小学生殺害事件について パート3。そして、ジャーナリズム批判。
何故か、今回から表記が「酒鬼薔薇」から「少年A」に変わった。

まず、少年法の加害者保護の立場から名前・写真を出せない事を批判。 「少年法の精神」は「殺人幇助の精神」であると言い、
ついに少年は"少年法"と"人権"を盾に殺人ゲームを楽しみ始めた!
と、過激に言い切る。

そして、犯人の写真を載せた「フォーカス」と供述調書を載せた「文藝春秋」について、
少年法がどーだか知らないがわしの道徳感からいけば
(法律について言及するつもりはないらしい。あくまで、小林の道徳感が基準。)
『フォーカス』がOKで『文藝春秋』がダメなのである
だそうだ。

顔写真掲載がOKな理由は、被害者側からの「見せしめ」「報復」だから。
これは、犯罪に対しては、法律で「社会的に」罰するのではなく私刑(リンチ)を 認めようという事だろうか?昔の村八分とか晒し首とかですね。賛同できん。

次に、供述調書の公開が駄目な理由。
その理由は1つ『被害者の許可』を取ってないからだ!

以後、「自分が被害者の遺族になった場合」を考えてそれでも、
あなたの娘さんの悲惨な最期を克明に描き出した供述調書
を公開するのか?と問い詰める。
ただ、この論理でいくと、例えば「淳君が頭部を切断されて校門に置かれた」 「地下鉄にサリンが撒かれて、多数の死者が出た」という新聞報道自体も 遺族の許可が要る様な気がします。
ジャーナリストが「商売優先」なのは今に始まったことではないですしね。 もともと「畜生道」でしょう。
大切なのは、大義名分として「正義」を振りかざすならともかく、 そんな自分を間違っても本気で「正義」だなどと思わないことでしょう。
そして、我々読者は、 「ジャーナリズムの正義などに絶対惑わされてはならない」。

…よく読むよなァちょっと前にも『マーダー・ケースブック』とか、殺人者の 本が流行ってたけど…」。
気が変なんじゃないのみんな?」。
正常だと思ってる?」。
そこまで惨殺シーンに魅せられるなんて…」。
これは、小林の趣味が出てます。好き嫌いの問題ですね。小林は、こういうのが好き では無いのでしょう。
ホラー映画が好きな人もいれば嫌いな人も居ますからね。ホラー映画が好きな人が 「異常」って訳では無いでしょう。
昔に比べて、「猟奇殺人に関心を持つ人が増えている」のだとすれば、その理由について考えてみるのは面白いかもしれませんが。

共同体崩壊 関係性の切れた個は人間が獣になりやすく発狂しやすいだけだ」。
さらりと、結構重要なことを言ってます^^;。「共同体崩壊」=「発狂しやすい」と 言ってます^^;。

わしもすでに第48章と第58章で描いたけど …」。
細かい突っ込みですが、第48章と第53章です^^;。誤植でしょうが。

Aくんの異常性は Aくんにさえわからない」。
ここだけ、「Aくん」と言ってます。宮崎勤幼女連続殺人事件の時にも「宮崎クン」 「M君」という犯人に親近感を持った言い方をする人がいましたが、小林が 今回の犯人に親近感を持って居るとは思えないので、非常に違和感があった。
作家の想像力で少年Aに感情移入していたので、つい「Aくん」と書いてしまったのかな?

大体…「我が子もあのような犯罪をやらかすのでは…」などと恐れている親なんかもう手遅れだ」。
今さらそんな恐れを抱くような育て方しかしてこなかったのならもうあとは神に祈っとくしかない」。
運がよけりゃ人殺しせず大人になるだろう」。
この辺は、多分そうでしょう。ただ、運良く大人になっても大人になってから 犯罪を起こすかも知れんけど^^;

わしは漫画家言ってることが学説にもとづいてない」。
どこぞの「大学教授」という肩書きでニュース番組で解説するタマじゃない
わしは漫画家権威がない」。
「塵芥川賞作家」とかいう肩書きで権威ある活字雑誌で一節ぶつステータスもない
相変わらず宮台真司が嫌いなようです。どんどん顔がディフォルメされてきました。 宮台の似顔絵の遍歴を眺めると面白そう^^;。
この2コマの小林の自画像も、とても好きです。今までの自画像で一番好きかもしれない。

今回のゴーマン

ごーまんかましてよかですか?
ジャーナリストども己のいかがわしさを正義の理由づけでごまかすな!
それは少年Aが己の卑しさをバモイドオキ神で理由付づけてるのと同じやり口だ!
関係ないけど、「少年A(エース)」という雑誌があるなぁ。とか思ってしまった^^;。

(おまけ)
ついでに言っとくが『フォーカス』の時にしろ『文藝春秋』の時にしろことあるごとに「少年法の趣旨に反する」として販売を中止する鉄道機関はなんて恐ろしいやつらなんだ
少年法を唯一絶対のバモイドオキ神にして検閲してるのか?
法治国家ですから、法律を遵守するのは別におかしくないと思うのだが…。 法律が間違ってると思うのなら、法改正すれば良いのだし、実際そうしてる。
バモイドオキ神を例に使うのが好きみたいですね。私はあまりイメージ的に しっくり来ないのですが…。

(関連)
新・ゴーマニズム宣言『第48章 酒鬼薔薇に踊らされてるやつら』
新・ゴーマニズム宣言『第53章 まだ言っておくべき酒鬼薔薇のこと』


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