だいぶ前ですが、立ち読みしました。疑問点を以下に列挙しますと、 1,ゴー宣として、そもそも面白いのか。ただの、宣伝になっているのでは。 国民の歴史に真っ向から切り込んでこそ、ゴー宣と言えるのでは。 2,4人の小林が知らない写真を掲載してたけど、果たして教科書の中で 小林が知らない人はこの4人だけだったのか。おそらく他にも大勢 いたはず。それを、あの4人だけ挙げて、カタカナ左翼の偏向と言うのは きわめて恣意的でしょう。 3,それに関連して小林は「蜂起する民衆」うんぬんをカタカナ左翼として 批判してるけど、そもそもこのような記述は歴史学の世界的流れの中から 出てきたことなのです。今までの歴史が、指導者や英雄といった人を 取り上げていたのに対して、もっと史料などの分析を通じて一般の 民衆の行動や感情を記述しようという風に歴史学の流れが変わって きてるのです。ですから、これはマルクス史観でもなければカタカナ 左翼史観でもないのです。代表的な学派にフランスのアナール学派があります。 そして、こうした流れが『戦争論』で小林が擁護しようとした自分の じいちゃんの話に結びつくはずです。じいちゃんの行動を擁護するためにも 日常の庶民の行動を重視する今の流れを小林は評価すべきでは。 以上です。 匿名 (H11.11/5)
はじめまして。わたくし今年の初めに友人から「戦争論」を借りて読んで、いたく感動 し、ゴ―宣を全巻集めるほどハマりました。それでゴ−宣のホームページを探してい ました。 さて、92章についてですが、「実はオウムと同じ共産主義の亜種なのだ」の部分ですが 、あなたはこの論に驚いているようですが、私はこの論は分かります。日本共産党を 例に取ると、国会では、絶対に自民党などとは組もうとしません。しかし日本をより よくするためには党の主義など超えてある程度の妥協は必要です。でも共産党は自分 達の考えが正しいと思っており、異論を受け付けません。小林氏は偏狭なイデオロギ ーは考えを狭くすると、「脱正義論」でも書いていますが、そのとおりだと思います。 人は一人一人違う考えを持っていますが、何かをするとき他人と意見が違っても、自 分を抑えて他人の意見に従うときがあるじゃないですか。そうでないと下手すると喧 嘩になってしまいます。だからある意味自民党と連立している創価学会が母体の公明 党より共産党の方が宗教的なのです。異論を廃し、妥協を許さない、これが進むと自 分の考えを他人に押し付けるようになるのです。中国ではそれが顕著ですね。天安門 事件のように民主化の異論を武力で排すようになるのです。オウムも自分達の考えが 正しいと思っており殺人もポアなら許されると思っているのです。だからオウム=共 産主義なのです。しかしそれでも小林氏がはっきりと共産主義が嫌いとは言わないの は共産主義が嫌いなのではなく、自分が正しいと信じ、その偏狭な考えを押し通そう とすることが嫌いなのだと思います。最近の「ゴー宣」の欄外で「民主主義は幻想で ある。」と言ったことも、民主主義と言うのも一つの偏狭なイデオロギーに過ぎない からなのだと思います。 社会人 (H11.6/3)
『第1章 平和をサービスと思う個人』 > 序章。 > 「平和」←→「混乱」(状態) > 「戦争」←→「話し合い」(手段) > なるほど、確かに。気付かんかった。 > ただ、戦争時に「平和」という状態はないだろうから、戦争と平和は相反 > するものであるのは確かでしょう。 でも、アメリカなんかは第2次世界大戦中にラッシーが見れたらしいっ すよラッシが・・・日本だって鞍馬天狗が見れたと言うし、焼夷弾が ふってきて焼け野原になるまでは“町や学校”は機能していたんだから “戦争時に「平和」という状態”だったといえるんでないかい? 赤毛のアンって読んだことりますか?一時期はまって全シリーズ読破し たんだけど最後のほうで第二次世界大戦とダブるんですよ。話が。 外国に兵隊として行った家族は戻ってこないんだけど読んでると“戦争 時に「平和」という状態”ではあるんですよね・・・とゆーわけで私は 納得したよん。 P.S.なんとなく書いたものなので返事はいらないよん by.中学生 (H11.3/17)
文献名 アメリカの鏡、日本 著者名 ヘレン.ミアーズ アメリカ人である著者が、日本人の目で歴史を考えた本だった。 ペリーは最新型軍艦を引き連れ、礼儀正しく、執拗に開国を迫った。その結果 、日本は近代的(近代的に見える)条約に調印したが、アメリカだけに有利な条約 であった。その経験を通じて、日本は自分の身を実験台にしながら、弱小国から平 和的、友好的に利益を吸い上げるためには、どのように条約を締結すればいいかを 先進国から学んでいく。 日清戦争後、欧米はこの生徒「日本」が意外にも優等生だったので卒業認定を 行った。そして、「日本」は不平等条約改正を許可してもらい、高校卒業証書を得 た。 日露戦争で「日本」は大学卒業論文を終える。 第一次世界大戦後、パリ講和会議で「日本」はインターン終了を認められ、優 等国となる。 満州事変で、日本は欧米諸国から得た知識を高度に発展させて、自分の行動を 合法的に理論づけた。以前に、アメリカは中国人盗賊から自国民を守るという理由 で南京を砲撃していたので、日本が合法的に取得した鉄道を守るために出兵しても 、従来の法解釈状上、問題ないはずだった。しかし、欧米諸国の非難が起こった。 突然、バサラ泳法が禁止されたように、ジャンプのスキー板が小さくなったように 、日本人は驚いた! それで「日本人は黄色人種だから、先進国から満州事変を非難されるのだ」と 感じた。 (パリ講和会議で日本が提出した人種平等案が、多数決で得票数が多かったの に否決された経緯もある) それを機会にして、終戦へのカウントダウンが始まる。 だから、日本は欧米諸国を忠実に映した鏡であり、理論を教えた欧米諸国が日 本を正しく裁くことができるのか?という本だった。 日本最初の条約締結から90年後、日本は裁かれた。 戦後に制定された法律は根本思想がほとんど変化していない。将来、同様の事 柄が起こるかもしれない。 by.BEAVER (H11.3/14)
初めてお便りします。私はゴー宣の初心者です。とりあえず、私の体験談から 始めます。 私は英会話教室に通っています。日常英会話ができれば、海外旅行で楽できる と思ったからです。実際、楽にはなりませんでした。英語で話す内容を問われたか らです。海外旅行すると、どこの国の方でも各分野で活躍されている方、政治家、 経営者、学者等々は殆ど英語が話せる方が多かったようです。私が多少なりとも英 語が話せることがわかると、日本についての質問が殺到します。日本人の考え方、 文化、歴史、経済、政治、その他色々なことを質問されてきました。私はできる限 りその質問に回答し、判らない場合には日本に持ち帰って手紙を書きました。国内 で「日本人」について考えることは少ないのですが、国外では明らかに私は「日本 人」なのです。英語が上達すればするほど、日本の文化、歴史、経済に興味を持つ ようになりました。 その中で色々なことを知りました。「肌色という表現は日本人にだけしか通用 しない」「子供が書く太陽は何故か赤い」「通常の日本語には主語がない」「主語 がない日本語は外国人に理解しにくい」「千羽鶴を折るだけでマジシャン扱いされ る」「空港で走るだけで銃殺される国がある」等々です。 国内で自分が日本人であることを考えることは少ないと思います。でも、一歩 海外に行けば「地球人」であるより「日本人」です。海外旅行に多くの日本人が行 っていますが、自分が考える日本人の情報を現地の人と共有する人は少ないと思い ます。そのせいか、大量にお金を持って襲来するけれど、実体がわからない日本人 のイメージを感じることがあります。これでは、エーリアンです。ただ、不気味に お金を落としていく不可解な存在です。 自国の歴史や文化を語ることができる人は尊敬されます。自分を何一つ語れな い人は単なる根無し草です。民族の歴史は戦争とともに断絶するものではなく、継 続した歴史の上に成り立っていくものです。そして、それは日本人個人につながっ ていくのです。 もうひとつ、気になるのは日本人の品性です。品性とは、異なる人格を尊重し、 態度で表現することであると私は思います。 BEAVER 掲載されても結構ですが、匿名でお願いします。 H11.2/14
こんにちは。あいと申します。大久保さんのHP、よく会社で^^;拝見させていただ いています。 基本的に私は最近の「ゴー宣」には反対です。 例えば「戦争論」にしても小林氏は「公」というものを、ある時は「公共心」ある時 は「国家」ある時は「故郷」と、都合よく使っているように思えてなりません。 イワデさんは「外国は明らかに自分たちと違う」とおっしゃっていましたが、決して そんなことはありませんよ。 確かに、違う部分もたくさんあります。でも、それは日本国内でも「お国柄」という ように、鹿児島と青森、沖縄と仙台、東京都と大阪でも見られますよね?同じ地域で もたくさんの相違点はあります。家庭内でも意識の違いはあります。 私は仕事や家庭の事情などで、よく住居が半年〜1年の単位で転々とするため、日本 でもいろいろな地域の方、又外国人の方とも親交を持ったことがありますが、個人の 持つ個性は、国民性・文化・言語・郷土・性別・宗教を越え、それらは1つの目安に しかならない(目安にさえならないこともしばしば)ことをよく思い知らされます。 それを無理矢理「国」で一くくりにするのはどうでしょうか?故郷を「地球」とする のは確かに無理があります。だけれどそれを「日本」とするのも、かなり無理がある ように思います。 自分の国を誇ろうするまえに、「自分」を誇れますか?現在、日本は外国からあまり いい印象を受けていないようです。でも、中田や野茂は外国に行き、そこでヒーロー になっています。彼らは誇るべきものをもっているからです。 「才能」でなくても、個人レベルで、家族、友人、他の市の人、他の県の人、他の国 の人に、例えば誠意を持って接していますか(勿論それですべてがうまくいくとはお もいませんが)?まずそれを行って、意志の疎通を行って、話し合って、その結果自 分を少しでも高めて、そこから相手にも影響を与えていって、そして家族を誇れる か、友人を誇れるか、会社を誇れるか、母校を誇れるか、町を誇れるか、市を誇れる か、県を誇れるか、国を誇れるか・・・という論議になると思うのですが。 私には無理です。友人か、せいぜい母校迄です。それをいきなり「国」といえるなん て、すごいですね。 勿論、日本に対して愛着はあります。義務教育制度が発達し、字を読めるようにして くれた日本に「感謝」もしています。でも「国に誇りをもつ」程、今の私にはこの国 に対して影響力はありません。そりゃ猟奇犯罪でもすれば別ですが、その他には選挙 ですか?(棄権は殆どしていませんが、私が投票する人はなかなか当選しないんです (笑)) でも、自分自身に「誇り」を持てるように、誠実に生きていきたい。これから先、子 供を産むことがあれば、その子が家庭を誇れるようにしたい。そして、できるだけ子 供に変な差別感情を植え付けないようにしたいです。(これは倫理面だけでなく、も し被差別状態にあるひと(女性・在日外国人・有色人種etc)に、その子供を幸せに してくれるひと、又は意識を良い様に改革してくれる方がいたらもったいないから (笑)というのもあります) そうやっていって、その結果、少しでも日本が良くなれば、それはとてもいいことで すね? 私が今の「ゴー宣」に賛同できないけれど、小林氏の本を買い、読むのは「面白い」 からです。そして、氏の「プロになれ」という言葉は大好きで、仕事に息詰まった時 はよくこの言葉を思い出します。でも「日本」のアイデンティティを明確化するため に戦争中の残虐な行為を、はっきりした証拠もなく「このような残虐性は日本にはな い、中国のものだ!!」と安易に結びつける氏の「戦争論」は恐ろしいとおもいます。 日本人の中で君が代や日の丸に反発がある人がいるのは、戦時中、それらの言葉に 送られて大事な息子や夫や父を奪われた人たちの心の傷から出たものだと思います。 「国旗や国家に敬意を持てないなんておかしい」という前に、その人たちの心の傷に ついて、私たちはもう少し考えるべきではないでしょうか。 「自分は国のために死ねる、自分の国を攻める人間は殺せる」という人たちにも、 まず、自分がそうやってなくたった時にどれだけの人が深く傷つき、泣くのかを、 もう一度考えてみて欲しいです。 両親、兄弟、妻、恋人、子供、友人、親族、又殺した相手の両親、兄弟・・・。 それらの人々に、一生消えることのない傷を残す「戦争」は悲劇です。 私は、どんなに正しい「戦争」よりも、まだ歪んでいようと「平和」のほうを求めます。 長くなって申し訳ありません。 掲載はかまいませんが、このE-Mailアカウントは他の人にみられちゃう可能性がある ので、返信は御遠慮ねがいます。そ、それとお忙しいでしょうが 早く戦争論の感想をアップしてください!!!待ってます!!! それでは。。。 by.あい (H11.2/4)
(大久保より) 「戦争論の感想」ですかぁ…。そういえば、そんな物もあったのぉ〜(遠い目)^^;;;;;。
こんにちは。イワデと申します。 つい最近、「ゴー宣」を読み始めた初心者です。 他の読者が一体どのような感想をお持ちなのか興味があり、 HPを読ませていただき ました。 読む人それぞれいろんな考えがあっておもしろいですね。自分の意見がはっきり 言える人にはとても好感が持てます。 私は言いたいことをいえるタイプではないですが幾つか意見がありましたのでち ょっと勝手なことを言わせていただきます。 [第63章自分のために闘う寂しさ] 《どうも小林は「国のため」にこだわりすぎているような気がする。少なくとも 「家族」「友人」「世界」「宇宙」よりも「国」が上に来る説得力に欠けると思う 。》との談について 私には「国のために」という言葉が小林さんの言いたいキーワードだと思えるの です。「国」、戦後生まれの私たちもしくは戦争を思い出したくない方々が無視し てきた存在。他国では当たり前の国旗掲揚、国歌斉唱がなぜ後ろめたいイメージを 持つのでしょう。 入学式や国会の場でのこれらがなぜ大問題になるのか小学、中学生の頃理解がで きませんでした。(日の丸がだめなら月でも星でもいいのに・・結構いいかも)そ んな経験をしてきたら当然そんな空気をつくる大人にしかなれません。 ブラジルに行ったとき、現地の日系人の方々は、勤勉で誠実な日本人の血が流れ ていることを大変誇らしく思い、国旗や国歌にも何のわだかまりもありませんでし た。今はブラジル人ではあるけれども、自分のルーツを大切にし、アイデンティテ ィをしっかり持って、異文化社会の主要ポストで活躍されている方が沢山いらっし ゃいました。問題のある国ですが皆さん「もちろんブラジルも好き、サンバ好き」 と胸を張っておっしゃりました。 また、バングラディシュというインドから独立した国の国旗は、緑地に赤の日の 丸です。これは独立の時に日本を手本とし、頑張っていこうということで決められ たと聞きました。(間違っていたら済みません) ふと思い出したことを言いました。やはり自分の中の得体の知れない違和感がい ろんな体験の中でずっとあったと思います。 自分の国を誇れないなんて何て虚しいのでしょう。 これからは世界の時代だと言いますが、私は逆に先ず自分の(国の)時代だと考 えるのが正しいと思います。小林さんが、「国」を強調するのは「国」があまりに もおろそかにされ、その結果として今があると言いたいのかな・・と思っています 。 家族や友人が大事なのは当たり前、誰でも素直にうなづく事です。では「国」は どうですか。私は国を飛び越えて世界を考える事なんてとても頭がついていけませ ん。理屈ではなく、人には心があり、小さな人間の心の包含できる範囲はたぶん限 界があると思うのです。世界の時代などといわれても半分、脅迫観念とも思えてし まう。そういわれても自然に受け入れられるようになりたいものです。 そのために自国を知って、悪い点、良い点全て含めて日本人なんだと思えること 、とっても大切だと思います。 外国は明らかに自分たちと違う。(文化、思想は統一できませんね。違うから楽 しいし・・) 自分たちの事が解って、初めて他人が理解できる。争いは不理解か らですからね。それが世界の時代の第一歩だと思います。 話は変わりますが、私は今回の新しい教科書づくりは期待にしている一人です。 こわばった空気はなかなか払拭できません。次の世代に期待します。その前にも少 しずつその方向に近づけたらと思います。 長くなりついでにもう一つ 同63章 《人間は、結局「自分のため」に生きています。でも「それだけ」では寂しい。そ の通りだと思います。だから、「誰かのために(も)生きようよ」・・・》 小林さんはたぶん [人間は、結局「自分のため」に生きています。]とは言っ ていないように思うのですが・・・。この(も)を入れるのは私の意見として反対 です。 ある人のエッセイの中にあった「人は誰かのために朝、目覚める。」(誰かがい るから・・かも)という気に入った文がありました。これは何が言いたいのかとい うと、人は自分のために生きることはできないと言うことです。 子供や恋人、人によっては神、会社、亡き人かもしれません。 自分のために生きているという人がいますが、それはちょっと違うと思います。様 々な関係が希薄になっている人かもしれません。 自分のためにホントに生きようとしたら宙に浮いたもぬけの殻、「少年Aくん」の 様に狂気に走り出してもおかしくありません。(Aくんも神のために生きていたが、 それは自分の作り出した自分だった) 人は自分の想う人がいなければ「朝、目覚める」必要がないのです。人は生きる ために生きることが出来ない。目的を持って生きたとき、それは誰かとの関わり( ため)を意味します。 人とはそういう生き物だと思います。 小林さんもこの様な考え方なのかどうか解りませんが、少なくとも私はそう思っ て生きています。 とっても長く、稚拙な文で申し訳ありません。(メールが2回しか送ったことがなく 書き方が解りません。手紙と一緒かなやっぱり) 大久保さんの今後のご活躍を期待いたします。 H11.1.27
はじめまして こんにちは。 貴ホームページにリンクしていただいている、「アンチゴー宣」を作成しており ます長田と申します。 「アンチゴー宣」を初めてしばらくたつのですが、斯界にまさか先達がいらっしゃ るとは知りませんでした。最初見つけたときには「しまった、2番煎じか」と冷 や汗ものでしたが、どうやらスタンスがかなり異なるようで、安心しております。 ゴー宣に関する大久保さんの意見には賛同するところもあり、もちろんそうでな いところもあり、いろいろ参考になります。 今後ともよろしくお願いいたします。 それでは 99/01/16 20:25:08 長田幸久 mail address yukihisa@bb.mbn.or.jp homepage http://plaza25.mbn.or.jp/~hinode_kogei/
(大久保より) 私も、長田さんの意見には賛同するところもあり、もちろんそうでないところもあり、 いろいろ参考になってます^^;。 「アンチ巨人軍」のように「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式に、それこそ批判に当たら ない点まで批判してる点も無きにしもあらずですが…^^;。
はじめまして。 「ゴーマニズム宣言」のページを拝見させていただきました。 私は小林氏の支持者です。 だからといって反小林の意見には目もくれないという偏屈さは ないつもりですが。 私ははっきりいって頭わるいですので、自分の思ったこと、感じたことを 理路整然とした文章にするのはヘタクソなのです。 ohkuboさんも、小林氏も、すごいなあと思います。 ohkuboさんは、お幾つなのでしょう? HPをざーっと拝見して思ったのですが、マンガというものの読み方が 少し違っておられるように感じました。 うーん、要するに・・・ 「流れ」ではなく、「1コマ」の中の「1文章」を抜き出して、意見されている ような感じがして・・・ ohkuboさん自身も「重箱の隅つつき」みたいなことをご自分で言われてますので そういう主旨なんだ!といわれればそれまでです。 以上、感じたことを・・・。 これからも、頑張ってください。 私も頑張って「よしりん派」としてのレベル上げに精進したいです。 by. jony (H11.1/16)
(大久保より) 私は、「反小林」のつもりは全く無いのですが…^^; 「重箱の隅つつき」には、ならないように気を付けているつもりなのですが、 逐一引用してコメントしているとどうしてもそうなってしまうのかなぁ? 感想文の構成を変えてみることも考えてみましたが、SAPIOを購読してない 人も読んでいますので、やはり今のスタイルで暫く続ける事にします。 今後共、ご贔屓に。
私は小林よしのり氏と同世代の男ですが、戦争論には全く共感できません。 実は「戦争論」は本屋で拾い読みしただけで読んでるほうが恥ずかしくなってく るような内容なのですぐ興味を失って、ほとんど読んでいません。 しかし、だいたいにおいて彼の書いていることは昔から反動右翼文化人が繰り返 し書いてきたことと変わりありません。ただ漫画にしただけです。 そして、繰り返し論破されてきたことです。だから、私にとっては何も目新しい 事ではなく、いくらでも反論できることです。 まず、彼の書いていることは、基本的な事実関係が間違いだらけで論理の展開以 前の問題が多く、その上で、一方的な論理展開をしていると思います。 彼の言っていることが部分的に正しいとしても、全体の事実関係と結論は全く違 うものです。 一例として、日本軍の残虐行為の証拠のうち、ほんのわずかを否定してみたとこ ろで、ほとんどの提示された証拠が否定できないで残っています。こんなことは 戦犯裁判の審理あたりでもすでに明らかなことです。有罪になったBC級戦犯のか なりが実行行為としての戦争犯罪行為を認めた上で「軍隊では上官の命令が絶対 なのでしかたがない。犯罪とは思わない。」といった程度の反論しかできていな いのです。これでは日本軍が組織ぐるみで戦争犯罪をやっていたことを認めてし まっているわけです。そしてほとんどの日本兵だった人が中国で洗脳されて帰っ て来るどころか、今でも同じように考えているのです。 私の中ではとっくに決着していることなので、細かいことは忘れかけているので すが、15年から20年ほど前の論争を知る手がかりとなる書籍は本田勝一 (名前もよく覚えていない)の「中国の旅」「殺す側の論理」に引用されている文 献あたりを読めば双方の記録が芋づる式に出てくるでしょう。 ただし、引用されている本はほとんど廃盤となっているであろう過去本なので図 書館にでも行かないと読めないかもしれません。 もし、若い世代が「戦争論」に惑わされているのなら、これらの記録をたどって 読んでみることを勧めます。 つい最近も読売新聞の書評の情報によると精神科医が書いた元日本兵が戦争犯罪 に対してほとんど罪悪感を抱いていない調査結果をまとめた本も出版されたよう ですが書名が分かりません。ただし、アンテナを張っていればいくらでも情報は あるということは言いたいです。 他人の解釈を聞く前に、多方面の事実情報を集め、よく消化してから態度を決め てもらいたいものです。 以上 掲載だけはOKです。 (H11.1/4)
(大久保より) 最後の2行が言いたかったんでしょうね。ご助言有り難うございます。 ただ、本田勝一の本も「本田勝一の解釈」ですからね。 「事実情報」とはなにか?というのは難しい問題だと思います。 少なくとも、私の中では本田勝一も小林よしのりも等価です。 小林の解釈が絶対だとは思ってないつもりですが、又何かありましたら 遠慮なく突っ込んで下さい^^;/ 小林の意見が目新しく無いのは、同感です。ただ、「目新しい意見が、正しい」 「目新しく無い意見は、間違っている」訳ではないですからね。