ゴーマニズム宣言の感想

(第55章〜第59章)

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mark 『第55章 広義の強制すりかえ論者への鎮魂の章』
(「SAPIO」 11月26日号)
感想のメール

今回は、『脱ゴーマニズム宣言』・慰安婦問題について。

関連書籍で紹介した『脱ゴーマニズム宣言』 (東方出版)<上杉 聰著>が、槍玉に上がっている。
うっかりするとわしの著作と間違いかねないように作られてるな
違う。この本は、小林よしのりに対する反対意見であり、小林よしのりファンに 見つけてもらうために「小林よしのり」の文字が目立たなければならないから 大きく書かれているのである。
それに「これは漫画家 小林よしのりへの鎮魂の書である。」と表紙にでかでかと 書いてあるのに、「うっかり」小林よしのりの著作と間違える人が居たら、 そいつが馬鹿なだけである。

そして、漫画の絵の「引用」について、 「業界の慣例として認められている「部分的な引用」はあくまでもセリフなどの 文章部分のみ」としている。
これも、違う。例えば、絵画の引用も「批評や解説が"主"で絵画が"従"の関係である事」「公正な慣例に合致した引用である事」等の制限はあるものの、引用は出来る。 この場合、著作者に許可を取る必要は無い。だから、問題があるとすれば、 今回の引用が「公正な慣例に合致した引用」かどうかだと思う。
確かに、 「これもあれも全部引用だと使いまくって、ちゃっかり自分の本の挿絵に してしまう」危険性があるので、アニメ・漫画の引用には権利者がかなり 神経質であるようだ。エヴァンゲリオンを初めとする「謎本」の類が絵の引用を 避けるのは、そういう権利者に「引用の正当性」を示す事が出来ないと考えてのこと だろう。適当に作ってるから。
逆に言えば、文字だけにしておけば、テキトーに書いていても権利者から文句を 言われないという「慣例」があるという事である。良いのォ?本当にそれでェ?

問題は、「引用の正当性」であるから、「カット数が幾ら使われてる」とか「ページ数 に換算して幾ら使っているからドロボー」という論理は、一時期あった「1回の漫画 に拳銃が何丁・キスシーンが何回あるから、有害図書」というのと同じで無意味である。
糸圭秀実でも柳美里でも、絵を自分の文で説明して批判していた。それが物書き としての最低の仁義だ」とは思わない。「百聞は一見にしかず」。

「公人」ならば似顔を勝手に使われてもしょうがない。「不快ならば、 小林よしのりの似顔を描き返せばいいというだけの話だ」 というのも、ずいぶん乱暴な論理だね。

この著作権侵害事件に関しては弁護士を立てて断固とした法的措置を取る!」今後の正しい「引用」の線引きをはっきりさせるためにも、これは良い事だと 思う。現状は、不透明な「慣例」の壁があって解りにくい。

そして、慰安婦問題。
上杉聰の嘘や遣り口を次々と暴いていく。
天下の朝日がドロボー本を持ち上げて、一漫画家に敵意むき出しの文を書くとは ・・・。情けないがおもろいのう」いや、確かに面白い!

慰安婦問題は元・慰安婦の被害の訴えから始まったのではない。運動家が 元・慰安婦を募集し探し出してきたのだ
「広義の人さらい」などという怪しい言葉を作ってそれでも足りずにあれもだ これもだ「強制性」だとぐだぐだ細かく説明してみせるのはサヨクのトリック である
小林の意見は、分かる。慰安婦問題について勉強不足なので、正しいかどうかまで は解らないが^^;

今回のゴーマン

ごーまんかましてよかですか?
・・・そんなインチキにまんまと乗せられて森岡氏は書評で「強制連行に注目しても ものごとの本質はさっぱり見えてこない」と書いてるんだからお笑いだ
知識人ならまず知ることから始めなさい
きまじめな偏差値バカはサヨクの細かいトリックにだまされるな!
前回宣言した通り、過激さが増してますね。
でも、締めの言葉はもう少し簡潔な方が良いのに、もう一つ話題を追加してます。 書きたいことがありすぎるんでしょうね。打ち込んでみたら、過激な絵の割には 言葉が意外に丁寧でした。



mark 『第56章 馬鹿オヤジにコビ売らぬ身の上話』
(「SAPIO」 12月10日号)

今回は、前回の欄外に書いていた「新潟での講演の話」から、天下国家への 「物語」について。

小林が、「暖房器具の歴史」を講演中に「そんな話を聞きに来たんじゃない!!」 と野次を飛ばした人がいたらしい。
どこの馬鹿オヤジじゃーーっ
わしは何度も断ったのに頼まれて「義理人情」で来てるんだぞ。
天下国家に関心持つ前にてめーの礼儀を糾(ただ)しやがれーっ
・・・まぁ「義理人情」で来てるかどうかまで、その「馬鹿オヤジ」は知らないだろうし 彼が期待していた「もの」と小林が伝えねばならないと思った「もの」とが一致しな かっただけの事だと思いますが^^;。ただ、一致しなかったからと言って、短絡的に 「野次」を飛ばした「馬鹿オヤジ」の態度は非難されて当然である。

たまたまわしの前に大月隆寛が話してて「身の程」「身の丈に合った」 「身の上話」といった言葉の大切さを説いていた
これは実に大切な事で、例えば個人の口から「地球環境が・・・」とか出てきた場合、 何処かに嘘があると思った方が良い。
実際の所、割り箸を使ったり爪楊枝を使うことが地球環境にどれほどの影響を 与えるのか又は与えないのか、そんな事すらを「感じる」能力など人間には無いのだ。 だから、科学的に分析した結果(と言われる物)を外から与えられて「想像力」 によって「感じた」ような気になっているだけなのだ。
だから、割り箸が森林破壊に繋がると騒がれたら「地球が泣いている」と胸を痛め、 割り箸は廃材を利用し人工林を保護育成していると言われれば、そうかと胸を撫で 下ろす。実に実にいい加減なものである。
逆に言えば、我々が「地球」や「天下国家」を「感じる」時には、何処かに「想像力」 による「嘘」が含まれざるをえないという事でもある。
遠い異国の餓死者を可哀相と「想像」するのと、肉親の死を実際に体験するのとでは 明らかに違うし、それで当然なのだ。人間の「想像力」を過信してはいけない。
「無知の知」と同じで「知り得ない事を知っておく」必要があると思う。
つまり、小林の提示する「天下国家への歴史」すら小林の「想像力」の産物である 以上そのまま鵜呑みにする事はしてはいけない。と私は考える。
多分、大月隆寛の言わんとしている事もこういう事だと思う。

そこで、小林も自分史の一部として「暖房器具の歴史」を紡ぎ始める。
・・・この豊かさの中で目標や価値を見失った
この豊かさに至る「歴史」を知らないからだ!
「歴史」を知ったからといって、目標や価値が生まれるのだろうか?

小林は、「馬鹿オヤジ」が喜ぶような話をする気は無いと言い、自分の読者である 若者に「自虐史観でない「歴史」」が必要だと言う。
・・・そしてこの豊かさを日本が得るまでには戦争もしなきゃいけなかったし・・・ 多大な犠牲者も出さなければいけなかったし・・・(中略)我々の祖父たちがじっくり 育んできた肥沃な歴史の土壌の上に今の豊かさがもたらされそこに今の若者たちが 生まれ育ち歴史の恵みを受けている
過去の歴史無しに現在は無い。自分の先祖が居なければ、自分がこの世に生まれる 事も無かった。だから、祖父や歴史に誇りを持たなければいけない。
先の大戦すら歴史の中の必然。やって実もあった。やらなければ、現在の日本は 有り得ない。確かにそうだ。
ただ、この「誇り」が良い方向に向けば良いのだが、悪い方向に向かう可能性を 否定できない。あと、「日本の歴史」に誇りを持つのではなく、「世界の歴史」 「地球の歴史」「家族の歴史」に誇りを持っても良いはずなのだ。
私は、大好きなパパの子供なのだ!という事に誇りを持っても良いし、 僕は、40億年かけて原始の海から発生し生き残ってきた生物の末裔である! という事に誇りと 自信を持って生きていっても良いはずなのだ。小林は、「日本人」という アイデンティティにこだわりすぎているように思う。

わしの知人の息子にやばいのがいる(中略)何故ここまで来たのか? これから何処へ行くのか?だれかが教えてやらねばならない 歴史を語るのはそのような意味があると思う
「温故知新」ですか。さて、小林はこれからの行く先を指し示すことが出来るのか? 超期待ですね。

今回のゴーマン

ごーまんかましてよかですか?
オヤジはわしが自分たちのために語ってくれると期待するな
天下国家までどうやってはしごかけようかと必死で語り口を考えてきたんだ
若者は馬鹿オヤジがヤジってきたらそれをつぶすくらいの元気出してくれや
今回は、静かな語り口調。こっちの方が、凄みが利いてたりして^^;。



mark 『第57章 論敵を悪魔化する『朝日新聞の正義』』
(「SAPIO」 12月24日号)

今回は、朝日新聞批判。

まず、『新・ゴーマニズム宣言 第4巻』発売の宣伝。表紙の貼り絵制作のエピソードで 2ページほど使う。これを読んでから第4巻の中表紙の絵を見ると、「天使のコナ」の 1枚1枚に怨念というか執念が篭っていそうで迫力が出てくる^^;。同時発売で 『朝日新聞の正義』(小学館・井沢元彦との対談本)という本が出たそうだが、 私は未見。

『聖人列伝』(今は亡き『PANJA』(扶桑社)連載)は、是非単行本化して欲しい。

で、本題。
朝日新聞は小林に対して薬害エイズ問題の時には好意的な扱いだったが、従軍慰安婦・ 歴史教科書論争になってから急に批判的な扱いになったと言う。
朝日新聞綱領には「真実を公正敏速に報道し評論は進歩的精神を持してその中正 を期す」・・・とあるそうだ
最近のわしへの評論は綱領に違反している
でも、「中正」と言うことは、好意的でも批判的でもなく事実をありの ままに伝えることだと思うので、昔も今も綱領に違反してるような気がするが^^;。
こういう有名無実化したお題目は取っ払った方が良いかもしれない。少なくとも 「中正」の振りをするよりはましだと思える。小林が問題にしているのも『朝日新聞』 が「中正」で「正しい」*振り*をしている点にあると思う。まぁ、「権威」とは もともとそういう存在なんですが・・・。

朝日のやり方は実に単純だ。論敵を「右翼」「自民党タカ派」などに結びつけて デモナイゼーション(悪魔化)する。ただそれだけなのだ
その実例として、「らーめん屋二郎」さんのエピソードを上げている。
この事例は、記事や経緯を全然知らないのでコメントできない。ただ、時系列的には 「事実無根の暴露本」→「らーめん屋さんに朝日からの取材」→「Yさんに朝日からの 取材」→「朝日の記事」→「らーめん屋さんにいやがらせ」。なのに、順番を入れ替え る事によって朝日の記者が「らーめん屋さんが右翼関係者かどうかを聞いた」事がとて も非道い事の様に描かれている。悪いのは、事実無根の事を書いた暴露本関係者の方で はないかな?らーめん屋さんは、朝日の記者に誤解である旨を伝える事が出来る訳だし。
「さらし者」になったと感じたのもYさんのほうで、肝心のらーめん屋さんがどう 感じたのかについては裏を取ってないようである。

・・・そう、いいたいのはこういうことだ
『ゴー宣』の読者なんかまるで自分と言うものが何もないロボットみたいな 人間ばっかりなのさ
記事を読んでいないので、本当にそういう論調なのかは判断できない。
ただ、今回の「応援レター」の内容は、結構その気があるように感じたのは 気のせいでしょうか^^;。

理屈ではどうしても勝てない相手の身辺をかぎ回って「あいつは、 ご立派なことを言ってるが、あいつの親戚にはこんな奴もいるんだぞ!」 と言う奴と、全く同じ精神構造ではないか!
『噂の貧相』あたりと寸分の違いもない
もし、本当にそういう意図があっての記事ならば、全くその通りでしょう。

朝日新聞の記者の決して全部とは言わないが確実に一部には「卑怯者」 がいるのであり「非常識者」がいる!
もし、本当にそういう意図があっての記事ならば、居るんでしょうね^^;。

謝罪できるかな?絶対にできないのである
追いつめてますね。朝日の対応は、

「間違ってると思わない場合」
1.反論する。
2.無視する。

「間違ってると思う場合」
1.謝罪する。
2.しらばっくれる。

でしょうか。今後の展開が気になります。

今回のゴーマン
わしは敵と戦うためにみっともない本を作ったりはしない
醜悪な本で金もうけしようとは思わない
今回はこの2冊を一挙に世に問うてクリエイティブに敵を追いつめる!

ごーまんかましてよかですか?
論敵を悪魔化する朝日新聞よ
「こんな本は待っていなかった」と書評欄に書け!
「クリエイティブ」は「芸術的」って意味なんでしょうかね。
全然関係ないんですが「悪魔」で思い出した。昨日(H9.12/10)、 初めて永井豪の「デビルマン」を 読みました。話には聞いてましたが確かに凄い作品ですね。
同じキリスト教をモチーフにしてるためか、「新世紀エヴァンゲリオン」との共通点 も多そうです。ラストシーンの2人も似てるかも。
閑話休題。今回は、読んだ直後はかなり興奮していたんですが、いざ感想を書き出した ら案外書くことが無かった。もう少し面白い感想文が書けると思ったんだけどなぁ。 ではでは。

(関連)
ゴーマニズム宣言『第114章 記名にするほど独自じゃない』
新・ゴーマニズム宣言『
第38章 サヨク化石脳を常識の海に沈めよ』



私が、「読んだ直後はかなり興奮していた」理由。

・今回の話題の中心人物がインターネット上の人だったため、 人ごとでは無い気がしたから。

・インターネット上で、私の事も「ゴー宣信者」として紹介している所があって、 図らずもコーフンしてしまいました^^;
良く考えたら、私もゴーマニズム宣言の信者ですね。今頃気付いた^^;。

・「上杉ドロボー本」と連呼しており、読者もそれを支持しているようなので 焦り、苛立ちコーフンしました。
著作者が無断引用を怒るのはまぁ解るとして、読者までも「ドロボー本」と無自覚に 小林と同じ物言いをするのが少し哀しい。上杉氏の引用の仕方は、お世辞にも上手い とは言えない(というよりもかなり大雑把な引用の仕方をしている)ので彼にも 非があるとは思うが、それと内容の批判とは別問題であるはずだ。

『小林は、女関係にだらしない → 小林の発言に信頼性は無い。』というのが、 「噂の眞相」の遣り口です。
この読者は、 『上杉は、ドロボーだ → 上杉の発言に信頼性は無い。』という考えに陥って いるのではないかと危惧する。杞憂ならば、良いのですが・・・。

さて、『朝日新聞の正義』を、「はじめに」の部分と最後のらーめん屋二郎さんの 記事の辺りをぱらぱらと立ち読みしてきました。

問題の記事の内容は、明らかにらーめん屋さんを 「主体性のない若者のように印象操作して」いますね。 これは、疑いの余地がない。
ただ、こういう記者の主張をインタビューを使って記事にする事って それ程珍しくないですね。
やられた本人が怒るのも無理ないと思うのですが、怒ってるのは小林の方ですね^^;。 それと、Yさん。本人がどう思っているのかが知りたい。
ま、色々事情があるのかも知れませんが。

それと、時系列が少し違うようですね。
「右翼に騙された、らーめん屋さん」→「らーめん屋さんに朝日からの取材」→ 「Yさんに朝日からの取材」→「朝日の記事」→ 「事実無根の暴露本・ネット上のいやがらせ」
のようです。で、右翼に騙されたと言う事を正直に話したら、「主体性が無いからだ」 というような書き方をされた訳ですね。
これは、「レイプされたのは、あなたに隙があったからだ」と非難されるようなもので 本人には辛いでしょうね。
ご同情申し上げます。

わしも騙されんようにせねば・・・。



mark 『第58章 「南京の真実」はそう読むな福田和也!』
(「SAPIO」 新春特大号)

今回は、『南京の真実』から福田和也、戦後民主主義批判まで。

まず、『南京の真実』(ジョン・ラーベ著)について 「すでに元慰安婦の証言をまんま信じて感情的になる愚を知っているから」 内容について、「嘘や誤りが混じっている」事を前提にして読み込んでいる。
「真実」を知るためには、正しい態度であろう。 社会学の場合、得てして「予断」や「感情」に左右されてしまいがちだが、 科学者は普通そうしている。自然ではなく人間が相手なので、検証や追試 がひどく難しいのだが…。

そして、この本を「無批判に第一級資料だと絶賛する」知識人の一人として 福田和也を批判。
女性読者の福田批判なんか、本当に痛烈で的を射てますね。

人間自分が偉いと錯覚すると己の器量を越えた問題に対しても大層な物言いをし 結果として筆者自身の器量の限界・本性を世に晒してしまうということが間々ある
これは、私の事である^^;。いや、別に自分が偉いとは思ってないつもりですが…。 小林にほいほい付いて行ったら自分の身の丈を越えた所まで来てしまったかなぁ〜、 とか思う今日この頃。
小林もそうなる「覚悟」は、持ってると思ってるんですがね。

福田和也よわしはきみに相当期待してたんだ
嘘だと思う^^;

なんだあの朝日新聞の社説や天声人語そのままじゃないか!
小林は、その元凶として戦後民主主義思想を上げている。

我こそは良識派たらんと指向した時悲しいかな今の日本人の「良識」の 根拠は戦後民主主義思想そのものになる
反戦…平和…自由…平等…なかんずく人権思想

(中略)
戦後民主主義はそもそもサヨクなのだ
「戦後」民主主義=左翼(共産主義)という主張は、面白い。
メビウスの輪というか、裏の裏は表と言うのか…。
因みに、「民主主義を疑え!」と言うのは呉智英の言葉ですね。

今回のゴーマン
ごーまんかましてよかですか?
東京裁判と人権思想の複合体にウルトラ洗脳されたままのお人良し日本人よ!
そろそろ目が覚めたらどうだ?
とうとう、日本の民主主義批判まで来ました!小林は、日本人のアイデンティティを 何時の時代にまで戻す気なのでしょうか!?

(おまけ)
前回のらーめん屋二郎さんの件について、メールで教えて頂きました。
日本ちゃちゃちゃクラブBOARDの34番「例の朝日記事について」に、 らーめん屋二郎さんの意見が書いてあります。



mark 『第59章 アメリカニズムに抗する日本人の自覚』
(「SAPIO」 2月4日号)

新春2本立て、第1本目。パート4色カラー。

今回は、アメリカニズムと日本人について。

まず、映画「エアフォース・ワン」のパロディから。
小林は、実際にオウムに命を狙われているので、どうしても「いくら平和平和と 唱えても、話しの通じない奴は必ずいる。そういう相手に対しては、 断固とした態度に出なければならない。」という考えのようだ。
でも、映画見てないんだけど子供の命を見捨てても良いという考えなのかな?

「バカだなァアメリカ人って……」少し知的なやつらはそう言って 笑っていた。……しかしそれはしょせん植民地ボケ日本人の「虚勢笑い」に すぎない
そもそもその笑っている相手に守られてヘラヘラしてるだけの日本人 じゃないか!
小林はこういうやつらを「カマほられニヒル」と命名している^^;。 言い得て妙である。小林の言語感覚は、やはり大変優れている。
で、正直私は「カマほられニヒル」でも良いと思ってますけどね。

読者のレターで、「私は日本を愛していますが、日本に居ながら日本を 愛することがとても難しいと感じます。」とある。
まず、「日本を愛する」とは何なのか?日本の自然を愛する事か? 自分の父母を愛する事か?日本の文化を愛する事か?
「愛するのが難しい」のに、無理に愛さ無くてはいけないものなのか? 愛国心って「義務」なんでしょうか?日本に暮らしていて自然に「愛」が 芽生えるならばともかく、無理に愛せ!と強制できる類のものでは無いはずです。

又、漢字は中国の文化を日本が取り込んで自分達の文化にしたものです。 同様に、マクドナルドを取り込んだ今の日本を愛する事だって充分に 出来るはずだと思うのですが・・・。
こういう受容性、なんでも自己流に取り込める悪食。こういう日本人のおーらかで いーかげんな所が、私なんかは日本人の偉いところだと思うんですけどね。 江戸時代なんて正にこんな感じだったと思いませんか?
頑なに自分達の「国柄」に固執する事が必ずしも最善の方法とは限らない。

軍隊についても、たとえば私がフィリピンに旅行に行った時、ホテルや本屋の入り口 には銃を持った警備員が睨みを利かせていました。これは、そうしないと襲われるから なのでしょう。日本人でも、護身用にナイフやスタンガンを身に付けている人は いるでしょうね。でも、これって不幸な状態ですよね。 いつも、襲われやしないかとビクビクしながら外を歩かなければいけないって いうのは。
我々が努力しなければいけないのは、武器を持って身を守る事ではなく そういう事をしなくても安心して外を歩ける世界を作る事のはずです。
「歴史は繰り返す」。しかし、同じ所をぐるぐる回っているようでも、 あたかも螺旋階段のように少しづつ上昇していくべきなのです。
日本は、「平和ボケ」になるほど平和なのです。私は、いっそのこと自衛隊も 解散して丸裸になって、世界に先駆けて武力放棄の先頭に立つぐらいの 気概を見せても良いと思います。丸裸の国を侵略するのはいくらなんでも 気が引けるだろうし^^;資源も無く、広い土地も無く、四方を海に囲まれて いる小島を侵略する物好きもいないでしょう。…北朝鮮が攻めて来るのかな?

今回のゴーマン
…畳すらなくなったこのマンション暮らしの中で日本的なるものとは 何か?
・・・アメリカニズムに抗する日本人ならではの価値とは何か?

ごーまんかましてよかですか?
日本人であるうことを自覚できて
守るべき国柄があるはずだと思い直して
それからしかアメリカニズムに抗する気概も生まれないだろう
いかん!いかん!いかんのいー!!

「日本ならではの価値」は、ここでは示していません。それを考える事がまず 第一歩だと述べています。さぁ、皆んなで考えよぉー!!


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