今回は、「サイン会は言論では無い」という事に一回使って居ます。
今回は、久しぶりに切れ味鋭い迂闊に読むと切られて血まみれになってしまいそうな
話でした。まず、家族共同体が解体し個人主義(ミーイズム)により個は漂流してい
るとし、「誇り」を持った国民を作らなければならないと説く。これに絡めて
女子高生売春は、「体だけでなく誇り」を売っているという。プロの売春婦は、
「誇り」を持って体を売っているからOKなのだろう。小林らしい批判の仕方である。
売春婦全てが誇りを持って春を売っているのかどうかは疑問であるが。それと、
誇りを持つ事のメリットとデメリットについても、もう少し考えなければいけないと
思う。
性奴隷を漫奴隷と置き換えて持論を展開しています。
以前、「社畜」という言葉から自分を「漫畜」と言っていたのと同じですね^^;
言いたい事は良く分かる。でも、分からない人には分かってもらえないでしょうね。
売春業と漫画家業とではどうしても1対1に対応できないから細かい所は
食い違っていますから、そっちにばかり目が行ってしまうでしょう。
う〜む、難しい。
ふろくは、凄いです。現役教授の抗議に対して文章のみで反論、最後に「強く疑問を
持つ」とはっきり言い切っています。なかなかこうは出来ないものです。正に、
「憎い漫畜しょう。」
今回は、「一線を越えた者」女子高生売春について。
「死ぬ覚悟」で人殺しをする人。バレル氏は、偉い!
でも、ほとんどの人は「死ぬ覚悟」が出来ずにおろおろ
時代に流されていっている。誰もが、坂本竜馬を尊敬し、
彼のようになりたいと考えるが誰もが坂本竜馬にはなれない。
人には分や器という物があるからだ。
「才能」と言えるかもしれない。
因みに三島由紀夫は、死ぬ為の大義名分や死に場所を
求めていただけでそれがたまたま「日本の文化や大和魂
(=天皇)を守る」という物であっただけである。
彼は、「人工的な美」を造る「才能」があったので
作品や評論を使って自分の死の正当性を書きまくって
いますが、どれも「人工物」で実際の世界とは乖離した
世界観ですね。(この世界観に惹かれて日本に対する
誇りを持った人に鈴木国男がいます。彼は、人間的な
魅力はある人なんですが・・・。)
だから、本来「国の為に死ぬ覚悟が出来ている」はず
の自衛隊員に決起を訴えても罵声を浴びせられただけで
した。ま、本人は希望通り死ねたので満足だったので
しょうが、人騒がせな人でした
(一緒に夭折した森田必勝君が一番可哀相です)。
自殺するために膨大な手順を一つ一つ確実に黙々と
こなしていたわけですから、その点は、常人離れし
ています。一種の「才能」なんでしょうね。
「天皇のためを思って熱き握り飯を自分の手
を焦がして差し出し、受け取られなければ、責任を取って
腹を切り、受け取って食べられれば、自分の汚れた手で
作った握り飯を食べさせた責任を取って腹をかっさばく。
これこそが、忠義である。」
(「豊穣の海 第2巻 奔馬」より、意訳)
自殺するのに非常に都合の良い理論ですな。
閑話休題。とにかく、「みんなが自分の事しか考えず、
国の事を考えなければ国が滅ぶ」という危機感は分から
ないでもないが、「日本国民ならば自国に対する誇りを
持ち、死ぬ覚悟を持たなくてはならない。」という
論理は賛成しかねる。
・・・ここまで書いてから、今回の小林の意見は
「常に平和主義でいくべきである。」という意見に対する
反発がメインである事に気付く^^; 憲法第9条の武力放棄
を認めるか否かという議論になっていくのか?
日本国憲法第九条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
余談)
今回は、今ヒット中の映画『失楽園』に対する意見。
今回、なんか懐かしい雰囲気。旧『ゴーマニズム宣言』第1巻の頃を思い出す。
小林が感じた、世の中の変な事、気に障った事を「怒る」というスタイルが
素直に出ていた。
今回は、香港に休暇に行った時の雑記。
本当に、雑多な感想が入り乱れていてこちらも感想を書きにくい。
取り敢えず、箇条書きにしてみる。
今回は、メイン・カルチャーとしての「教科書」とサブ・カルチャーとしての
「漫画」についてと、「神話」について。そして、保守派についての苦言。
最初に、「サヨクはフールを嫌う」と書いている。これは、実は保守派に
対する牽制である。これで、「新しい歴史教科書を作る会」は小林を
迂闊に切れなくなってしまった。ちょっと、ずるい感じもしますが^^;
戦略としては上手い。
今回は、須磨・小学生殺害事件
について。
今回は、心の中の獣性について。
(おまけ)
・「戦争論」には、期待。憲法第9条問題には、触れるのだろうか?
・「獣欲ゴー宣を制す」。ありゃ、これじゃあいけないんじゃないのか^^;
若き日の過ちか。
・次回第50章は、「堂々16ページのぶち抜き!書き下ろし」らしい。期待。
サイン会は、ファンサービスであるから命懸けでまでやる気は無い。
ただし、やる意味があるならば命懸けでも決行するとの事。
覚悟完了って感じ。
後、欄外では相変わらず新聞を批判。「朝日新聞よ、・・・・」って、
なんか電柱に貼ってある、右翼の違法ビラみたい^^;。
(おまけ)
『噂の眞相』読者コーナー。「ドラえもん」
(藤子 不二雄)のペットクリームの話が、今の「たまごっち」のブームを予言していて感心した、
某漫画家など足元にも及ばないだろうとの事。「ドラえもん」という批判しやすい
題材でしかもペットクリームの話で感心している所がなんか可愛い^^;
若くても変に擦れている読者の多いこの雑誌の中で、珍しく17才らしい。
ので、印象に残った。
『第41章 誇りなき《自虐したふり》オヤジも死ね』
その後は、宮台真司批判。相変わらず相手の欠点(はげ)を笑い者にしながら
批評を絡めるという掟破りの方法論。最近は、漫画も自主規制が強くて
例えば「チビ」とか「デブ」「ブス」を笑い者にするギャグマンガがなかなか
描けないみたいですが、「特定個人」の身体的欠点を笑い者にするという
逆転の発想。これも、小林らしい。ただ、一歩間違うとビートたけしのように
毒舌を言うだけ言っておいて、批判されたら「ギャグにいちいち本気になっている。」
と開き直るのと同じになってしまう。
「30代おたく世代の中には「性」のタブーをだらしなく取っ払ってしまうその
危険性を自覚してないやつがいるようだ、やがて彼らが結婚し父となった時に
今度は自分の娘を偏愛して「性」のタブーを踏み越えるような…。」この
「予言」は、実は当たるような気がします。やばいやばい。やっぱり、「自覚」は
大切っすよ「自覚」は。
「宮台!髪を上げろ、終わりなき脱毛を生きるには自虐したふりではみっともない!
輝かしい「誇り」を取り戻すのだ!」。輝かしい「はげ」と絡めています。
悔しいぐらい奇麗に纏まっています^^;
『第42章 わしは広義の強制連行による漫奴隷だった!』
<特別ふろく>吉見義明氏の「従軍慰安婦認識」は「木を見て海だと言い張る」の類だ!
『第43章 一線を越えた者への処置 日本・アルバイト売春少女編』
まず、小林の考えは「おいおい、わしは異形や不良に悪意持つどころか・・・わし自身、異形の者かもしれんのだぜ」「ただ、わしは異形や不良をやさしく甘やかさないだけだ」という台詞からよーするに「自分の行動に責任を取れ!」「手前の尻は、手前で拭け」と言ってる訳ですね。カナモリの台詞も基本的にそういう事。ここでカナモリは、「「プライドなんていらない」ってなら「自分を認めてほしい」なんて気持ちはいらないでしょ!」と言っている。実は、私はこれに近い事を思っています。つまり、「道端で裸でおまんこ広げて「タダ」札置いて”誇り”を捨てる」事が出来る人。って居ると思うんですよね。
後、「プロの売春婦は”誇り”を持ってるよ!」と言い切っているが、私は、以前にも書いた通り全ての売春婦が自分の仕事に誇りを持っているとは思えない。誇りを持って売春婦をやっている人に敬意を払うのは当然として、持ってない人はどうなるのか?自分の仕事に誇りを持っているサラリーマンに敬意を払うのは当然として、持ってない(持てない)サラリーマンはどうなるのか?
また、「誇り」と「一線を越える」は別の物だと思うが、「一線を越える」ためには「覚悟」をしろ。「覚悟」が出来ているならば、他人からどう見られようとも「誇り」を持つ事が出来るはずだ。という論理だと思う。さて、「一線を越える」とはどういう状態か?体を売った時点で一線を越えた事になるのか、カラオケや食事の段階で一線を越えた事になるのか?一時の快楽・寂しさを紛らすために体を売る事と、一生養ってもらうために体を売る(結婚する)事の違いは?多分、「屈辱感」を感じた時が「覚悟」の出来ていない「誇り」が汚された状態で、その時が「一線を越えた」時だと、私は解釈しました。
結局、「自分の尻は、自分で拭け」って事ですね^^;
「どいつもこいつもアメリカの植民地の自由の中でふやけたニヤケづらさらしやがって・・・」過激やねぇ〜。あ!、日本人の足腰を弱くして雑菌を撒き散らさせ、ウォッシュレットの快感によって精神を堕落させる悪の西洋文明 "洋式トイレ" 排斥運動でしたら協力しても良いですが^^;
最後の締めは、「女子高生は「誇りなき奴隷のまったり親父ども」を、軽蔑せよ!」・・・という事なので「親父ども」は、女子高生を買うときは「覚悟」と「誇り」を持って買うようにしましょう。売春も、「覚悟」と「誇り」を持ってしましょう。警察のポスターにも「援助交際は、売春です。」って出てるぐらいですからね。
『第44章 一線を越えた者への処置 ペルー・アルバイトテロ少女編』
感想のメール
まず、ハイジャックされた時に、「もう即、死を覚悟すべきなのだ!」と何故言えるのか?飛行機に乗る事が「一線を越える」事で「覚悟」が出来ているから「誇り」を持って死ねるはずだ!という事でしょうか?そこまでの「覚悟」を持って飛行機に乗る人はいないでしょう。それに、飛行機には年端もいかない子供も乗っていると思うが、彼らも「国のために死ぬべき」なのでしょうか?小林は、子供たちに「国のために死ね!」と言えるのでしょうか?私は、出来ない。「テロリストは生還させないというのが国際的な常識になりつつある」から、「私」を捨てて「公」の前に死を「覚悟」せよ。と言う。まず、「国際的な常識」を持ち出すのが小林らしくない。「風潮が容認する正義」 を優先させてはいけない。(第36章)はずだからである。その後、「間違っても自分だけ身代金を払って生き延びようとか思ってはいけない・・・そんなエゴの強い奴からテロリストに殺させよう。個人が大事私が大事を貫くのは醜悪だ」と言っているが。自分の命を投げ出して死を覚悟できる人に敬意を払うのは当然として、自分の命が惜しいという人間が、果たして本当に「エゴが強く」て「醜悪」な存在だろうか?私は、それが当たり前の人間の姿だと思うぞ。
つまり、「誇り」を持つ人は偉い!持たない人は、普通。という論理ならば、私も納得いくという事です(特に国に対する誇り)。「誇り」を持つ人間は、普通。持たない人間は、「醜悪」。では、まさに「国のための戦争に反対する人間は、非国民」といって死ぬ覚悟の出来ない人を断罪して来た軍国主義と同じになってしまう。バレル大佐は偉い!しかし、誰もが家族を捨てて「国のために死ぬ」必要があるのか?死ぬべきなのか?死を「覚悟」すべきなのか?「一線を越え」なければならない理由が不明である。
「人々の「公共性」の最大範囲は、やはり、「世界のために」ではなくて「国のために」だろう」。何故、「家族のため」や「宇宙の平和のため」ではいけないのか?たしかに、一個の人間が実感する範囲には限界がある。両親の「死」と、アマゾンのミミズの「死」を等価に感じる事は我々には出来ない。我々が、「地球のために」という時には必ず何かしらのファンタジーを介して現実が歪められた形で感じている。「国のため」でも、一個の人間の想像力では人によっては感じきれないだろう。現に、軍国主義時代では、「天皇」=「日本」という図式を用いて、天皇に対する敬愛を、国に対する敬愛に摩り替えて(ファンタジー化して)いた。これは、大半の国民が「国」をそのままの形では認識できないから、より分かりやすく抽象化する必要があったからではないのか?逆に言えば、人間のファンタジー能力を駆使すれば、まだ見ぬ宇宙人とも語り合いシンパシーを感じ合う事が出来るのである。
つまり、最大範囲を「世界のため」ではなく「国のため」に設定した理由がさっぱり分からないという事です。因みに、『宇宙船サジタリウス』では、最大範囲は「家族のため」でした。
今回の話題は、興味深いのでもう少し考えてみます。
まず、「国の為に死ねるか?」という命題に対して
「死ねる人」は偉いと思いますし、尊敬もします。
でも、「死ねない人」を「臆病者で醜悪」だとは思いません。
「死ぬ覚悟の出来ている人」も、まさか「死ねない人」
を馬鹿にしたり見下したりしてないはずです。
愛する祖国。父。母。子供。人々。自然。それらを
守れて本人は満足しているはずです。もし、「死ねない人」
を臆病者とか裏切り者と言うならば、その人は本当には
その国を愛してない、信じていない事になります。
そんな事を言う「死ねる人」は、単に自殺好きで
死に場所を求めているだけで、多くの人を道連れに
しようとしている悪人だと思う。
国のために死ぬなら
他人をどうこう言わずに自分の信じる事を行いなさい。
そうすれば、運が良ければ感謝してもらえるでしょう。
「死ぬ覚悟」で人殺しをしない人。ガンジーは、偉い!
「死ぬ覚悟」で革命を行った人。坂本竜馬は、偉い!
誰もが「死を覚悟して国の為に働く才能」があるわけ
ではないのである。普通の人は、自分の命が惜しいはず
である。違うか?
坂本竜馬の世界を見る視点も、常人の及ぶところではない。
普通の人間には、世界をありのままに感じることは不可能
であるが、彼はそれが出来た。これも、「才能」である。
誰もが、「世界」「国」「文化」「自然」をありのままに
感じる「才能」があるわけではない。
「才能」の無い人間が、歪んだ「愛国心」を振り回す方が
よっぽど「醜悪」だと思うがいかがでしょうか?
「日本国民ならば自国に対する”誇り”を持つべきである」
という部分も重要になってくると思われるが、これについての
考えはここでは保留させてもらう。
「ゴーマニズム宣言」もだんだん、「いろはにほう作」
のラストエピソード(プルトニウムを盗みだして核兵器を
造ってしまう!)のように異常なハイテンション状態に
なっていきそうな気配がしてきました。
慰安婦問題から愛国主義、そして武力行使の是非まで話が
拡大していきそうです。さぁ、ラストはハッピーエンドか
バッドエンドか、はたまたそれらを越えた所へとたどり
着くのか?これからは、ますます目が離せませんね。
『第45章 失楽園でなくても心中はできる』
「今回の話、男にとっても女にとっても、若干不安を起こさせるようなヤバイ部分が
あるかも・・・」たしかに^^;
「信頼に結ばれ愛情にくるまれて自分を解放する絶頂は女の精神を豊かにして安定
させる。女の充足感・幸福感とはこうして得られるものなのである。」たしかに
そうなんでしょうね。しかし、他人を信頼しないと心の安定が保てないというのは
つくづく人間って弱い生き物なのね。
今回のゴーマン
『わしはちゃんとイカせて同時にきっちりイクことにした。セックスにおける
エクスタシーは小さな死である。服毒自殺せんでも同時にイクことが心中じゃねーか!
わしはまだまだ何万回も心中してやるぞ!』
で、肝心の黒木瞳の乳首が立っていたのかどうかが描いてないぞ〜!
『第46章 植民地・香港は中国のたまごっ地になる』
・ 小林よしのりは、たまごっちに注射を打ちたがる。 --> 後半の展開から
注射を打つ=世直しをする。という事だろうか?
・ 白人よりも色が白い事、鼻が高い事を自慢する小林よしのり --> そのくせ、
体を焼きたがる。矛盾してるぞ^^; 白=正義。黒=悪。黄色=バナナ。
ってイメージでしょうか。これも、後半の展開から否定すべき
アメリカニズムのはず。
・ ホモからケツの穴を死守する。 --> NOといえずにケツ穴を犯されてしまう
日本人・・・居そう^^;
・ 香港は、案外英語が通じない。 --> 私が香港に行った時にも感じた。
庶民はほとんど英語がしゃべれないようだ。植民地と言っても、英国の
影響は思ったほどないという事か?ただ、掲示板などは英語が併記されて
いるので助かる。深釧(中国)の看板は、読めなかった。
・ 日本ほどの美人は見当たらない。 --> 違う。同じ民族なんだから、服装や
化粧はともかく外見は、日本人と香港人との区別はない。はげたおっさんから
きゃぴきゃぴのねーちゃんまで、日本人と同じ。私は、地下鉄で道を聞かれた^^;
・ 中国人は、愛敬が無い。 --> そう言われてみるとそうかもしれない。
・ 日本人は、’愛敬’がありすぎる。 --> どうでしょう?ノー天気な西洋人から
見ると日本人は’愛想笑い’だけで何考えているのかわからんみたいですが。
・ 資本主義もアメリカニズムも面白い。 --> 面白い物は面白いという事。
・「よしりん企画」も公共性が育っていない。 --> 監督不行き届き^^;
・「守るべき者を命懸けで守るサムライの精神もない」 --> 最後のゴーマンにも「サムライ」
という言葉が出てくる。サムライ=守るべき者を命懸けで守る人。という定義
らしい。昔の日本=サムライの国。というイメージもあるようだ。ただ、
サムライの死生観は、当時の日本人の精神性の高さを示す物だとは思うが、
士農工商の内でサムライの割合はわずかだったと思うし、農民から年貢を取りた
てて「武士は食わねど高楊枝」とプライドだけを肥大させていったのがサムライ
だとも思うが^^;簡単に腹切るし。どうも、「生きる事」よりも「どう死ぬか」
に偏った思想だと思うんだよね。だから、「国のために死ね」とか言う言動
になる。「国のために生きろ!」「愛する物を守るために生きろ!」でも
良いはずなのにね。国のためにみんなが死ぬと国も無くなる。それならいっそ
国を無くして生き残るという方法もある。それが、新しい国になる。
今回のゴーマン
「日本はアメリカの植民地なのか、たまごっ地なのか?
植民地ならまだ独立の目があるが・・・たまごっ地ならうまく育てられて・・・
やがてアメリカになるかもしれん」
ごーまんかましてよかですか?
「逆に香港が中国を呑み込んでしまうように、日本がアメリカを
呑み込む夢を見ているのがわしなのだ。そのためにはまずサムライ
の復活からだ!」
日本は、アメリカから搾取されている「植民地」という訳ではないので、
やっぱり「たまごっ地」なんでしょうね。香港が中国を呑み込む云々は、
少し唐突な感じ。
『第47章 新しい歴史教科書に絶対、漫画は載せん』
漫画家として「物語」の復権のため歴史教科書に「神話」を載せる事を
訴える小林。「物語」の復権はいいけど、神話って歴史じゃなくて
物語な訳だからね。まぁ、それよりも西尾幹二会長が神話を大きく扱い
たがった理由の方が知りたいが。
「だれもがその(=国家や歴史)物語を共有することによって自らに制約を
加えそのことによってアイデンティティーを獲得している。」これは、
以前私が書いた「ファンタジー」と大体同じ意味でしょう。ファンタジー
=幻想。つまり、「共同幻想」に過ぎない。もちろん、共同幻想は必要なん
ですけどね。それが、「国家や歴史の共同幻想(物語)」「自由民権・
市民平等という共同幻想(物語)」色々有ると思うんですけどね。
何故、ナショナリズムを至上の「物語」だと決めたのかが不明。
「事実はこれだファクトはこっちの方だと論争しているようではまだまだ
近代合理主義の枠内での教科書しか作れない。」枠を超える教科書がどういう
ものかまだ見えてこないのですが、徐々に明らかになってくるでしょう。
楽しみ楽しみ。
教科書に、漫画は絶対載せない理由は、
「(教科書に)漫画が出てきてフキダシに気色悪い思想誘導的なセリフが
書かれていて子供たちをマインドコントロールしようとしている」から
だそうです。漫画でなくても、思想誘導する事は出来ると思うが^^;
まぁ、とっつきやすいというのはあるでしょうが。
その後、西尾氏・西部氏・福田氏に対する苦言。「過疎になった思想村
のチンケなくっつきあいいがみあい見栄の張りあいにつきあってるヒマ
ねーんだ」くだらない、内部のゴタゴタにに巻き込まれる位なら
さっさと、「作る会」に見切りをつけて独自にやっていくつもりみたい。
今回のゴーマン
「西部も西尾も過疎の保守村の中年若手が言うとおり
保守の世論化が気になってしゃーないなら
この小林よしのりをまず切れ!
切ってしまえ!
平成の奇書『ゴーマニズム宣言』は歴史に残る!
何度でも甦って後世に伝えられるんだからな!」
「奇書」というのが奥床しい^^;(以前にも、言っていますが。)
どういう形で残っていくのでしょう。そもそも残るのかな?
さぁ、みんなで考えてみよう!
『第48章 酒鬼薔薇に踊らされてるやつら』
出だし、動物の死骸と人の死骸の違いについて。人を殺す事と動物を殺す事の
違いは?
人は、生きるために他の生物を殺すが、同族(人)は殺さない。
では、食べるために動物を殺す事と、快楽のために動物を殺す事の違いは?
他の生物は、快楽殺人は絶対しない!人間だけが為しうる行動「快楽殺人」
これが、エスカレートすれば人間も殺しかねない。これが、今回の事件である。
小林の認識では、中学生が快楽殺人しても不思議ではないようである。「社会に
異常者はいない」という考えに異議を唱える。むしろ加害者に同情して社会の
せいにするような「殺され損」「殺し得」の社会に危惧を感じている。これは、
オウム事件からの小林の認識でしょう。
「「自己」ってのはいきなり先生が学校で教えてでき上がるもんじゃないだろう。
誰様がどーやって教えるってんだ?」と「浣腸ヅラした社会学者(たぶん宮台真司)」
を批判^^;。よっぽど彼が嫌いなようである。
「「自己」は社会の関係性の中で作られる。」
「・・・しかしこのストレスのある立場の中でしか決定能力のある自己などという
ものは育たないのである。」この辺りはその通りでしょう。ただ、
「自分というものを考える時どこに属してるかという立場で考える方が自信を
持って考えられるという人たちの方が多いだろうと思う。」という考えは、
「別の会社に行ったら別の人間になって発言も全部違ってしまいますよ。」
という考えと合わせて、国民の大半は「衆愚」であるから「特定の物語」に押し込め
なければならない。という考えとなり、賛同できない。
結局、「ミーイズム」の結果が今回の「快楽殺人」の原因であり、
共同体さえ回復すればこんな事件は起こらない(未然に防げる)と言っている事に
なる。共同体が回復すれば本当にこんな事件は起こらないのかという疑問は残るが、
「ミーイズム」の対価として「快楽殺人」を受け入れるのかどうかという厳しい
選択を迫られている事は確か。哀しい社会かもしれない。
今回のゴーマン
「殺人ができるようになったらりっぱな大人だ。
きっちり刑事処分にしてやるべきだ。
それしか今の大人にはできることがなかろうが!」
子供たちのSOSに耳をすまそう。
子供たちがかわいそうだ。
子供が人殺しした時だけそんなこと言っててどーする?
「オレをみてろ」「私を見てなさい」と無言で伝える大人はおらんのか!?」
自分がやった事に対しては償わなければならない。少なくとも自分がした事
の意味が理解できて反省するまでは、社会に戻ってきてはいけない。
これは、確か。
ただし、被害者・加害者に同情するのは、別問題だと思う。
私は、とても哀しく思う。
『第49章 夏のエロスをどう操るか』
スイカの話の中で、突然「絵里」という女性が出てくる。以前出てきた事が
あるのだろうか?何やら意味深。そこから、昔話へ。小林の若き性体験の
赤裸々な告白!?。「やらなきゃわるいってほど隙だらけじゃないか」。
ここからいきなり、酒鬼薔薇の話へ。己の良心を押え込み自分の欲望を
正当化するための神「バモイドオキ神」様を使って、小林の気に入らない
論を捻り潰す^^;。
今回のゴーマン
「・・・地獄が来る」「わしにも「バモイドオキ神」様が見えたらどうしよう?」
「殺したいやつが多すぎて大惨事になる」
「人間も獣の一種だ」「心の中に獣性を潜ませている」
自分は麻原と似ていると自覚している小林。今回も、酒鬼薔薇の中に自分と
同じ「獣性」を感じているようである。
ポイントは、「獣性をどう手離すか」という所。「ゴーマニストの課題なのだ!」
という事から、小林もこの点についてハッキリした回答はまだ持っていないよう
である。「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフの「英雄論」のようにこの手の
独断には常に危険性が伴う。しかし、逃げていては進歩も後退も無い。
はっきりしたものが無くても、判断していかなければならないのだ。
正に「超人たるゴーマニストの課題」である。
・今回のタイトルでは、第48章となっているが第49章が正しい。
次回には直ってるかな?
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