2本立て2本目。今回は、小林がプロデュースした本『「つくる会」という運動がある』の宣伝。
今回のゴーマン
「たのむ読者しょくんこの本売れなきゃメンツが立たないんだ」
「「しぶい!」とうなって買ってくれ!」
今回も2本立。16ページ。まず1本目、「孤独を楽しむ」について。
「わしはメカに弱い」
「ケータイもパソコンも使いこなせない」
「…メカなんかきらいだ」
完全にオヤジですね^^;。小林も、テレビやビデオデッキや電話機やCDデッキは使ってるみたいだから、「新しいもの」に適応できなくなってきてるんですね。新しい物って恐いですもんね。「TVを見たら白痴になる」というのと同じ感覚か?
私も、新しい物は迂闊に手を出さない方です。携帯電話もクーラーも車も持ってません。携帯電話なんか、電磁波で脳がイカレるらしくて恐くて恐くて…^^;。
ウチの家族が、木の風呂をステンレスに変える時も、黒電話を留守番電話にする時も、トイレを和式から洋式にしようとした時も反対したのは私でした(トイレは死守した)^^;。家族の中で一番保守的だと言われています^^;。
「(携帯電話は)便利だ女性は防犯にも役に立つ」
小林の今までの言動だと「女性が人通りの無い夜道を歩くこと」からして間違っているのでは?
「タバコや酒と同じだ」
「吸ってもいいが…」
「飲んでもいいが…」
「かけてもいいが…」
「マナー守れよ」
そーだそーだ!…… 自戒自戒^^;;;;
「幸福な束縛のない子は虚ろな自由に漂う」
コレ、今回のキーワード。
「この子を本気で引き受けるつもりで束縛できる男が見つかればこの子は着地するのだが…」
そんな娘を、本気で引き受ける人などいないでしょう。
「そういえば昔わしが中学生の頃「フーテン」ってのが流行ってた」
永島慎二を思い浮かべますね。『青春裁判』は、是非読んで欲しいです!
「大人社会を拒否してピュアな青春ごっこに呆ける年ごろがいつの時代にもあるものだ」
そこから、学園祭にまつわるエピソード。
「ホームルーム・ノートに翌日わしはこう書き込んだ」
「みんなで青春ごっこしてろ!!」
青春してますね〜^^;。「自分と他人との違和」「周りと馴染めない自分」「自分だけは特別だという優越感と劣等感」これこそ、いつの時代にもある青春の1ページですね。
「みんなが友情ごっこしてる隙に…」
「青春ごっこしてる隙に…」
「一人で何者かになろうと企んでいた」
分かります。天才とは、孤独なものなのです。
「いつの時代も友情ごっこしてないと不安な者はいっぱいいる」
YES.むしろ、そういう人が多数派でしょう。天才がうじゃうじゃいるのも考えものですし^^;。
「そして今は確かに束縛のない虚ろな自由の中で不安な子供たちは増えている」
「彼らは「情報」でつながっているが「人格」ではつながっていない」
これは、次の章へと繋がる話ですが、どうも取って付けたような理屈に思える。詳しくは次章にて。
今回のゴーマン
「援交もケータイもインターネットも「自己表」世代も…なーんにも関係ない所で孤独を楽しんでる恐るべき若者がいるはずってことだ」
2本立て2本目。今回は、「情報と人格」について。
「インターネットでEメールの交換してるうちに恋してしまい…」
「会ってみると相手は男だった!…とか」
文通相手が男だったり、母親ぐらいの年齢だったりする事もある。
「ケータイで見知らぬ男と話してるうちに盛り上がって…」
「会ってみると殺された!…とか」
友達の紹介で付合った彼や30年連れ添った相方に首を締められることもある。
「「情報」で人とふれあってると思ってるととんでもない間違いだ」
これは、確か。ただ、ことさらインターネットやケータイを危険な物のように描いているのはただ単に小林が「新しいもの」に適応できなくなってきているからだと思う。
「情報暴走社会の中で「人格を見抜く目」が今厳しく問われている」
その通り。この情報の洪水の中、如何に自分にとって必要な情報を取得し、要らない情報を捨てていくかが重要である。
「おまえの異論が正論かどーか公に向かって問えばいい!」
「公に向かって走れ!」
その通り。
「今の日本だって否定面だけ列挙したら大事典ができるに違いないのにな!」
このコマに書かれている「交通事故…年間1万人の命を犠牲にクルマ社会を維持」は、
ここの私の意見と似てる。
ただ、「良い面だけ見て、否定面を見ない」というのは非常に問題のある態度だと思うぞ。やはり、車社会の問題点は挙げていくべきだし今後共ずっと考えていかないと、良くなるものも良くならない。
「わしの「直感」は大東亜戦争は絶対に避けることのできない文明の衝突だったと言っている」
「わしの「直感」がこう叫ぶ」
「あの日本建国以来最大の危機に命を賭けてくれた祖父たちに感謝しろ」
「さもないとバチがあたる」
「直感」は大事です。なんでも最初に「アタリ」をつけてから、そこを核にして調査などをしていくべきだと思います。そうでなければ「相対性理論」も証明できなかったでしょう。ただ、「直感」=正しい。では無く、そこから理論的に調べていくうちにこれはちょっと違うな。と思えば、思い切って最初の「直感」を捨てる勇気は持つべきだと思う。そうでなければ、それこそ「信じる者は救われる」「イワシの頭も信心から」という「宗教」の世界になってしまう。
今回のゴーマン
今回は、彼ら(野坂昭如、筑紫哲也、大江健三郎、井上ひさし、田原総一郎)について。
新年最初の連載は、以下のセリフから始まった。
「あけましたか?おめでたいか?」
「この原稿は平成10年のうちに描いとるから平成11年を迎えたはずのみんなに聞くが…」
「オウムにしろ薬害エイズにしろわしが描くと急速に事態が動き出したとか言われ…」
「イラク・北朝鮮をめぐる情勢の緊迫度もまるでわしが『戦争論』を描いたからのように言われたりするこの頃だ」
「わしのペンが「戦争」起こしとるんかーい」
確かに、小林が従軍慰安婦問題を本格的に扱いだした(『新・ゴーマニズム宣言』第26章1996年9月)頃には、今のような世界情勢になるとは夢にも思ってなかったですね。私は。
やはり、天才は世の中の流れを読む嗅覚が利く、或いは、世の中の流れを創っていく事が出来るんでしょう。
その後、売れる事にとことん拘る小林が「増刷」の一言でふらふらと『「つくる会」という運動がある』の帯カットを描いてしまう。
「このこと西尾会長にはないしょだぞ」
会長に気を使う小林。いろいろ大変だ。
その後、筑紫哲也と野坂昭如とが『戦争論』について対談していた話。
「しかし「小林某」とか「小林ナニガシ」とか意地でもわしの名を口にしたくないというのがミエミエで…」
「しかしだれの話してるのか視聴者にわからなくなるのでテロップで説明しなくちゃならなくなるとは…」
「なんてみっともない!」
私も、伏字は大嫌いです(人名だろうと社名だろうと)。知ってる人には伏字の意味がないし、知らない人には調べようがない。非常に閉鎖的で独善的な行為だと考えます。伏字に意味があって、それが面白いギャグだったりすれば良いのですが、大抵は、分かる人だけ分かるという内輪的なしょーもないギャグか、名指しで批判する勇気がないので、抗議を避けるために使われています。
私は、「O久保」でも「オー久保」でもなく「大久保」ですので、皆さんよろしく。
「多感な思春期に(中略)しかしそれは若者から見れば頑固ジジイとはとても見えないだろう」
「実際 戦場に行った70代80代の祖父たちの中に『戦争論』を支持してくれる人たちが多くいて(後略)」
この部分の意味が取れません。「多感な〜」から「頑固ジジイに見えない」理由。それが、「『戦争論』を支持する人が多くいる」に繋がる文脈が読み取れませんでした。誰か、教えてくれませんか?
大江健三郎、井上ひさしにも、ゴーマンをかます。
「外人も道ばたで小便したらパブリック・マインドがないと言われるのです」
「だから公衆トイレでしてください」
「公園のトイレは公共のものであると公認されております」
「このような公(パブリック)な意識はプライベートなエロ行為をパブリックな場で偽証したクリントンにも菅直人にもわかるでしょう」
「公」の繰り返しギャグですが、最後の「プライベートな〜」は、そもそもプライベートな事を公にしなければならない理由はないでしょう。プライベートに犯罪してた訳でもないし。
以下、ハンナ・アレントを持ち出して、小林の考える「公」について。
そして、田原総一郎との対談本『戦争論争戦』の宣伝。昨年末に亡くなった淀川長治さんの口調で、作品紹介。
「では少しだけ紹介してまた…後でお会いしましょうね」
アクション映画の予告編のように、対談を再現。
「そんな国連をバカにするならそりゃ生きてる価値ないわっ!」
「国連を神様と思ってる人間なんか生きてる価値ないよっ!」
「…はい!どうですかみなさん?」
「こわいですねェ」
「いやですねェ」
「バトルですねェ」
「ではさよなら」
「さよなら」
「さよなら」
今回のゴーマン
「「現れ(アピアランス)」が我々の感覚のリアリティを形成する。伝えたい何ものかがあるのならそれを非私人化(デプリヴァタイズ)し語ることで公的舞台にのせなければならない」
(感想文は、まだです。)
今回のゴーマン
「わしってひょっとして「頼りになる顔」してるんじゃなかろうか?」