何時の間にやら、連載100回目になりました。目次やあおりでは、特にその事については触れられていません。
今回は、「筑紫哲也ニュース23」について。
まず、TBS前局長が痴漢で捕まった話題から、
「しかし痴漢が慰安婦問題で日本軍を責めていたのだから笑わせますな」
「ぶざまです」
その後、6月30日の「筑紫哲也ニュース23」に放送された筑紫哲也、辺見庸の対談に突っ込み。
「ガイドラインの文句言うのなら日米安保を見直すしかないしだったら独力で日本が安全保障を担保すべしと言うしかなくなるぞ それでいいのか?」
我田引水。
「国旗・国家法制化はわしはヤボなことだと思ってるよ」
「だって慣習であり儀礼だもん」
(中略)
「しかし 法制化したってなんにも怖くないだけだ」
「ち〜〜〜〜〜とも怖くないんだな」
私は、子供の時に最初に歌った歌が「♪白地に赤く日の丸のせて、あぁ美しい日本の旗は」でした。生まれた時からの根っからの愛国者なんです^^;。「君が代」も、好きで一人で良く歌ってます^^;。
「なんだよ 自分が面白がってるくせに視聴者は「相乗的に劣化している」ってか?」
この突っ込みの元の辺見氏の発言は確かに不自然な内容である。私は、この番組を見ていないので、これは小林の要約が間違っている可能性が高い気がする。
「…聞きあきてしまったよ日本はファシズムになったことないんですよ」
ここは、小林の撒き餌ですね。食い付いた所を、釣り上げる気^^;。
「ぶざまな国民がいてもいいし辺見庸がぶざまでも一向に構わんのだが」
「医者がぶざまじゃ困る!」
「官僚がぶざまじゃ困る!」
「政治家がぶざまじゃ困る!」
「TBSの前局長がぶざまだったから社員や筑紫だって困っただろう!謝罪しただろう!」
辺見氏は、多分「(戦争中に)大儀のために死ねなかった人」を「ぶざま」と表現したのだろうが、小林は、「痴漢」を「ぶざま」として論理展開してます。
確かに、医者が無様だったら困るけど、でも医者も弱い人間だから、逃げたり肉親を優先させたりする事はあるでしょうね。そこをやせ我慢してでも「公」のために尽くせ。というのが、小林の主張。
「そもそもこの日本“オレが”“アタシが”はもう子供たちの所まで浸透しちゃってるじゃないか!」
「学級崩壊・いじめ・キレる子供・不登校・おやじ狩り・援助交際・性病少女・薬物中毒青少年」
「親がぶざまで「公」の意識がすっぽりぬけて「個」がない「私」だけ「エゴ」だけだから子もぶざまになっている!」
確かに。しかし、何故「性病少女」なんだろう?「性病少年」は、流行ってないのかな?
「それにしても「ブザマで何が悪いんだ」って主義の者が国や政治を憂えちゃいけないよ」
「なんでテレビに出て「公共」に向かって言葉を届けようとしてるの?」
これは、いい質問だと思う。
「普通テレビ見る人はこんな会話はまんぜんと聞いてるもので何言ってるかわからんまま通りすぎる」
「だから無反応が自然なのだ!」
私は、こういう風に漫然とテレビを見るのが嫌なので、見たい番組しかテレビは見ない事にしてました。今は、テレビが無いので物理的に見れません^^;。テレビとか車とか、「有って当たり前」と思っているものも、無ければ無いで何とかなるものです。一度そういう物から離れて自由になり、客観視してみるのも良い事だと考えています。
今回のゴーマン
今回は、合併号ということでいつもの倍の16ページ。
妹尾河童著『少年H』について。
今回は、「新しい歴史教科書をつくる会(つくる会)」内部の混乱について。
「つくる会」副会長の濤川栄太、藤岡信勝両氏の対立が激しくなり、小林の提案で
2人を解任した顛末が描かれている。
この内容の真偽の程は分からないが、小林サイドから見たほぼ正確な描写でしょう。
本当にヤバイ内容は、描いてないだろうし^^;。
まぁ、私は「つくる会」にそれ程興味がある訳ではないので、野次馬的に「へー、そういう事があったんだ。」ってなもんですが、「つくる会」関係者には衝撃的な内容なんでしょうね。
今後の反響が、楽しみ^^;。
「「つくる会」なんて期間限定の非常招集された仮の組織体です ボランティアです」
「こんな組織の中で「地位」や「権限」に執着するなんて明らかにおかしい!」
この辺が、小林の考えが出ていて面白い。私もそう思うけど、学校のクラブや自治会でも、仕切りたがる人が居ますよね。どんな小さな組織でも「猿山のボス」に成りたがる権力志向の人間は居るって事でしょうか。
「この会に「私心」はいらない」
「本当に「無私」の者だけが残ればいいのだ!」
小林が、会の方針を勝手に仕切ってます^^;。
「だが今回どうしても袂を分かたねばならぬギリギリの理由がありギリギリの時が来た …わしはそう判断した」
…と、いう訳で「悪」を行ったという「告白」。
もっと、穿って見れば先手を打っての「噂の眞相」対策。…いろいろ大変です^^;。
今回のゴーマン
今回は、増16ページ。『脱ゴーマニズム宣言』「書籍出版発行差止等請求事件」敗訴について。
「ん〜〜〜ん 敗訴・ハイソ ハイソサエティ」
「一応念を押しておくがこの裁判を左翼は慰安婦問題やイデオロギー闘争に引っぱりたいのだろうが全く関係ない要点はこれだけだ」
「作者の許諾なく漫画作品の絵・カットを引用しなおかつその絵を改ざんして発表する事が合法か 否か?」
「今回の場合において」という注釈付で、その通りですね。今回の裁判では、「引用」の是非についてしか判決を下していないのに、『脱・ゴーマニズム宣言』の内容に司法によるお墨付きが付いたかのような書き方が散見された。
「当然わしは今回の判決は認められないよってこの件は控訴してさらに争うことになる今回の件の経緯を以下に紹介するので読者しょくんの常識に照らして考えてみてほしい」
私の考えは、ここ と ここ に大体書いてます。
「論点1.批評か便乗か?(タイトル周りがモロ便乗なんすけど…」
「…このあからさまな本のデザインからして常識ある者ならばヒット作家・作品のネームバリューによる顧客吸引力を狙った便乗本だと見当がつくだろう」
この論理だと、小林よしのりに対する反論(批評)は、全て「ヒット作家・作品のネームバリューによる顧客吸引力を狙った便乗本」だと決め付けることになりますね。デザインでなくて内容の問題だと思いますが^^;。
「論点2.これは漫画批評なのか?意見批評なのか?」
「よしりんは、「慰安所とレイプは」ザザーッ「ちがーーうっ!!」と描くが、実態は、内部でしっかりとつながっていたのだ。」
「…一体このような引用の場合 どうして絵が必要と言えるのか?単に活字だけ抜き出してよしりんは「慰安所とレイプはちがーうっ!!」と書くが…とした方がすっきりして読みやすいではないか!」
そうは思わない。相手に与える印象が、文章と漫画とでは変わってくる。どのような批評を選ぶかは批評者の自由でしょう。小林は、漫画批評と意見批評を分けようとしてますが、それならば『ゴーマニズム宣言』自体、漫画にする意味はないですよね。
「さらに下のカットに至ってはセリフすら使っていない」
「単なる「さし絵」として使ってページかせぎしてるのだ!」
この辺の個別の「引用」については、適当な部分もありますね。『ゴーマニズム宣言』を知らない読者に『ゴーマニズム宣言』の雰囲気を伝える目的があったのかもしれませんが、概して好い加減。本文と注釈欄を分けて、「図3のように小林は描いているが…」というように縮小コピーで「引用」した方が良かったのではないか、とか色々思います。この辺が拡大解釈されて「さし絵」として使われる事に危機感を覚える気持ちは分かりますが、杞憂だと思います。そういうあからさまな本は、裁判で負けるでしょう。
「「詞」しか批評しないのなら「曲」はいらない「セリフ」しか批評しないのなら「映像」はいらない「意見」しか批評しないのなら「絵」はいらない当たり前ではないか!」
そうは思わない。特に今回の場合。
「論点3.絵と文章は全く違うから「慣例」がある」
「なぜ許可を得ることが「慣例」になっていたのだろう?」
「それは才能と努力で完成された「絵」に対する敬意が出版界や引用する者の中に厳然としてあったからである」
商売のためにその方が都合が良いからでしょう。出版社としては絵の「引用」を囲い込みたい。批評家としては、絵の「引用」を自由にしたい。そのせめぎあいが今回の裁判でしょうね。健全な批評のためにも、囲い込みを緩くするべきだと思う。
「絵の制作にかかる「労働力」も忘れないでいただきたい」
「労働力」と「引用」の是非は別問題でしょう。それに、「活字」には「労働力」が掛かってないのだろうか?
「絵一枚一コマにかかる才能と労働力に対する敬意があるから出版界には漫画の引用には許諾がいるという礼儀や「慣例」があるのだ!」
出版界にとってその方が都合が良いからでしょう。
「論点4.作品の改ざんまで許されるのか?」
これは、かなり恣意的な「引用」をしてますね。似顔絵に「目線」を入れる発想自体は面白いですが^^;。
「引用」「肖像権」「公人・私人」など色々な問題が含まれていて難しいですね。
「はっきり言っといてやろう似顔絵も作者の主張であり批評である」
この「批評」は、「意見批評」でしょうか「漫画批評」でしょうか?もしかして、「印象批評」?
この「批評」に対して「目線を入れて引用」する事によって「批評」してるのかもしれませんね^^;。
ここから、裁判の「判例」について。
「ここまで「引用」が拡大解釈されてしまったらもう歯止めは完全になくなったに等しい」
「「資料だ」と一言いうだけでOKなのだからもう何でもやり放題である」
「これからは人気漫画のカットを無断で使い放題使った便乗本が巷にあふれ返るのはもう目に見えている」
創作者として、拡大解釈される事を危惧するのは分かりますが、多分そうはならない。そういう本は、裁判で負けるでしょう。
「わしだってかつて『ゴー宣』で次のような場面で「サザエさん」を自分で描こうとしてダメだと知ってあきらめてシルエットにした」
『サザエさん』の「模写」がダメなのに、小島功、土屋ヒデルの(多分無断)「模写」は良いのでしょうか?
「漫画を愛しているなら「慣例」を守れ!」
出版界に都合の良い「慣例」ですね。
「「慣行」「慣例」が破られたら後は「法」に頼るしかなくなるその「法」が「慣行」よりも「自由」を選んだ時は…」
「この国は「慣行」なき完全な「法治国家」になる!」
「そしてアメリカのような訴訟社会が現出するだろう」
「アメリカのような訴訟社会」の例として良く挙げられるのが、「ディズニー」と「長谷川町子」なんですけど^^;。「著作権法」を盾に必要以上に情報を囲い込もうとする。日本人には馴染まない。
「これではマンガの絵は著作者のものではない引用者のものだ!と言ってるのも同然である」
「無理やり一点残らず「適法」にしようとしてわしの著作権を0にしやがった!」
とても怒ってます^^;。確かに、今回の判決は丼勘定な所がありますからね。
「絵と文が不可分なら今後正確に絵も含めて引用しろよ!」
「今後は文字だけ引用なんてしたら「正確な批評」をしてないと見なしもーーれつに抗議するぞ!」
ギャグとしては面白いが、小学生の喧嘩みたい^^;。批評の形態は、批評者の自由でしょう。必要な「引用」は、出来る。
「柳美里がわしの絵を引用しなければ批評できないなんて言うか?」
「大江健三郎が言うか?」
「吉本隆明が言うか?」
「言うわけがない」
「文章家として敗北じゃないかそんなもん!」
批評のあり方を、一つに嵌め込もうとする事に無理がある。
(実質、今回の主張)
「「引用」と称する「便乗商売」の自由を防げ!」
「今はただでさえ著作権を簡単に侵害できるインターネットだってあるんだ」
「これは出版界だけでなく音楽界・写真界にも絵・書・映像関係の著作権にも波及していく大問題だぞ!」
必要以上に騒ぎ立てている感じがする。
創作者として危機意識を持つのは当然だと思うが、実際の影響はそう大きくないでしょう。
今回のゴーマン
「『ゴー宣』読むか?」
「『脱ゴー宣』読むか?」
「そいつはニセモノよ!」
今回は、中学の歴史教科書について。
今回、中学歴史教科書を出典を明らかにして、そのままコピーして使ってます。しかも、大量に。前回の論旨では、「意見批評なら文章だけで出来る」と言っていたのに…。
かなりあからさまにやっているので、確信犯だと思うが、「目には目を」のつもりなのか、他の反論を用意しているのか…。気になる。
「まずはクイズを一問 この人たちは いったい誰でしょう?」
「「誰だこれ?」と思うのが フツーだと思うが ところが…」
山本宣治(山宣)は、宮崎学著『突破者 -戦後史の陰を駆け抜けた50年-』に出てきますね。京都出身で宮崎学の親父さんとも付き合いがあったみたいです。最近読んだので、覚えてました。顔写真を見たのは初めて。感謝!。
他の3人は、知らない。歴史は、苦手だったので…^^;。
「実はこれ 現在使われている 中学歴史教科書に 肖像写真付きで 載っている人たちである!」
「実は日本の歴史教科書は 中国さま 韓国さまの お気に召すように 書かなければならない という狂った決まりが 存在するのだ」
それは知らなかった。
「歴史と神話の境目は 非常に不分明であり 現代では逆に 歴史が神話の 役割を果たしている」
神話は「歴史」であり、生物の進化は「理科(科学)」であるという主張。
昔々は、神話が「歴史」であり「国語」であり「科学」であった時代があったハズで、それが分岐してきたと考えれば、1つの考え方としてなるほどと思う。
「神話は歴史じゃない祖先はサルだと力説している教科書まである」
「なんて非歴史的な!」
「なんて非文化的な!」
「なんて理科的生物学的な!」
「結局ダーウィンの 進化論が マルクス主義 共産主義の 進歩史観を 子供に 植えつけるのに ぜひ必要だという 教科書執筆者の 下心がよくわかる 教科書である」
マルクス主義、共産主義って「唯物論」が基本みたいですね。それに対抗するために、「神話」が必要という主張。
「日本人は自らが サルの子孫だとしか 思ってないのに 外国人は 生物学としての 認識とは別に 祖先が神々に つながっているという 誇りをも持っている」
宗教なき日本人。…昔から言われていましたな。
アホ史観。
「奈良・平安時代は…」
「虐げられた民衆! → 立ち上がる民衆!」
「鎌倉時代は…」
「虐げられた民衆! → 立ち上がる民衆!」
「戦国時代 それは…」
「民衆がものすごく立ち上がった時代!」
「そんで江戸時代になると…」
「再び虐げられる民衆! → 再び立ち上がる民衆!」
「明治時代になると…」
「やっぱり虐げられる民衆! → やっぱり立ち上がる民衆!」
「しかし西南戦争と 農民一揆を いっしょくたにして いいのか?」
「日清・日露以降は…」
「アジアを虐げる日本! → 立ち上がるアジアのみなさん!」
「そして戦争が 終わると…」
「マッカーサーさま 民主主義をありがとう」
「要するに現行の 歴史教科書の 歴史観というのは 一言で言って…」
「「サルから地球市民への進化の過程」 …これに尽きる」
今回のゴーマン