今回は、「つくる会」との決別について。8ペ−ジ。
(表紙)「小林よしのり 衝撃宣言! さらば「新しい歴史教科書をつくる会」」
「衝撃」…かなぁ^^;。
まず、2月7日の「つくる会」のシンポジウム「小林よしのり『戦争論2』をめぐって」の様子。
「だれも思想を 語らない。 なぜなら…」
「日米同盟を 傷つけるから。」
2ページ目、最後のコマ。この絵から、小林の3名(田久保 忠衛、田中 英道、八木 秀次)への不信感が滲み出ていて良い。特に、眉間の皺は怒りが篭っていて良い。
「わしは、もう 「つくる会」のシンポで、 語ることはない。 思想が 語れない 場所なのだ。」
シンポジウムの最中に、小林の発言がヤジで妨害されたという話。
多分、これが一番頭に来て、決別を決意させたのだろう。
「耳が悪いのか ーーーっ」
「頭も 悪いぞ −−−っ」
「パチ パチ パチ パチ パチ パチ パチ パチ パチ パチ パチ」
「若い読者が 「反米」という語を 誤解しないように 言っておこう。」
「わしだって、映画や音楽や ファッションや、生活まで、 多くのアメリカ文化に親しんで 生きてきた。 アメリカの文化が 好きという部分だってある。 しかし、アメリカの実体は、 銃や差別や弱肉強食の 暴力的国家の側面がある。 そして、日本人としての歴史や 国柄を理解しだした時、 アメリカは、警戒せねばならぬ 国家となったのだ。」
うーん。この説明では「反米」という言葉への誤解とは何かが、解らないなぁ。
その後、アメリカへの盲信を、マインド・コントロールに例える。
しかし、この例えは、いまいちピンとこない(参考: 第151章)。
「彼ら、ポチ・ホシュは 言う。」
この「ポチ・ホシュ」という言葉。第157章辺りから、急に出てきたが、定義されていないような気がする。
カタカナ「サヨク」と対になる言葉で、「ポチ」(忠犬)のように、ご主人様(アメリカ?)に尻尾を振る。自称「右翼」(保守派)というような意味かな?。
小林の言語感覚の鋭さは相変わらずだが、小林の中だけで定義済みの言葉は、一度は説明しておいて欲しい…。
(備忘)
・ 一般に知られた「差別語」を使わずに、自身の「造語」により、相手に負のレッテルを貼る手法。
ヤジを飛ばしている1人が、実は場内整理係だった。
「会の内部にいる 公共性が欠如した 反共・忠米パラノイアの男が ヤジで言論を妨害し、」
「一般客の 女性が、それと 戦っている!」
パラノイア: 偏執病。精神病の一つ。
患者が抱く妄想は論理的には一貫しており、行動・思考は秩序が保たれている。
(国語大辞典(新装版)小学館 1988)
西尾幹ニとの議論。
「それは、あなたの 主観にすぎない。」(中略)
「漫画だから というのは、 読解力のない故の 偏見だ。」
自信満々。
「さんざん、わしを 利用しておいて、 自分の都合の悪いことを 描き出したら、 「漫画」のせいにする。」
「漫画」と言うよりも、「小林の描く漫画」について、苦言を言っているように思う。そして、都合の良い時には誉めそやし、自分と違う意見になれば苦言を呈する(議論する)。という事自体は、極めて自然な事だと思う。
意見の違いから、「つくる会」を離れるのは自由だと思うが、どうも「自分(小林)を立ててくれないから」出て行くという風に感じる。まぁ、ヤジは論外だとは思うが、どちらかと言えば、「追い出された」形になるのではないか?^^;。
「わしは西尾氏のように、大仰に、 「ブルータスよ、おまえもか!」 などと言わない。」
「裏切られたとは、 全然、思わない。」
「いつか、この日が来ると わかっていたのだから。」
「ブルータスよ、 やっぱりね。」
「そう言うだけだ。」
余裕かましてます。
今回のゴーマン
「昔、某雑誌で、 内部に、反・小林が 出来上がった時、 わしが出て行った。」
「薬害エイズ運動でも、 情と信頼が途切れ、 学生が左翼に 取り込まれる前に わしが出て行った。」
今回は、「親米保守」批判。8ペ−ジ。
今回は、『わしズム』(小林よしのり編集長)創刊について。8ペ−ジ。
今回は、辻元清美批判。8ペ−ジ。
私も、辻元は好きではなかったのですが、今回の「後ろから切りつける」ような攻撃のされ方には、少し気の毒に思っています。
でも、「病気療養」は格好悪いですね。もっと、得意の毒舌を披露してもらいたかった。
「完全な 「メディア人格」である」
「オウム信者 林真須美 八木茂… メディア人格者は 罪人の自覚がない。」
「メディア人格者」という言葉は、初耳ですが。
どうも、「罪人の自覚が無い犯罪者」=「メディア人格者」と定義して、オウム信者と辻元を並べる事により批判しているようです。
ちょっと、ズルい方法ですね^^;。
(靴箱の靴を盗まれた話)
「みんな、やっている ことなので 罪の意識が まったくない!」
(自慢の傘を盗まれた話)
「わしは、自分が 正直者だと 自慢したい わけではない。」
「わしは、自分が 嘘つきだからこそ、 漫画なんか描いて、 食ってこれたのだと 自覚している。」
「罪」を自覚し、清濁併せ呑む覚悟が必要だと言う事でしょうね。
確かに、社民党はクリーンなイメージを前面に出し過ぎた為に自滅してしまいそうですね。「水清ければ、魚住まず」。尤も、村山富市首相(社会党時代)の時に既に終わっていた感じもありますが…^^;。
「辻元と、 その支持者よ!」
「だれもがやってる 犯罪なら、 やっちゃった方が 得なのか?」
辻元の「みんなやっている事だから」という反論は、関西ローカルかもしれませんが、駅前の駐輪禁止を咎められた「大阪のおばはん」が、「皆んな、停めてるやないの!何で、私だけ注意されなあかんの?ねぇ!なんでよ!」と喚いているテレビコマーシャル(公共広告機構)を想起させますね。
「秘書費横領について」
個人的会食を会社の経費で落とす事は、良くない事だが、純然たる会社と個人との問題であり、外部の者が口出しできる問題ではない。
国家議員の場合は、支払われるお金は税金であるから、税金を納めている国民は自分たちのお金の使い道に対し、口出しできる。不正は許せない。という事だと思う。
となると、税金の使途の問題は国会議員だけとは限らない。
・ 自営業者が、自宅の車を社有車と申請して税金を安くする。
・ 失業保健が切れるまで就職する気は無いのに、就職活動を行っている振りをして、失業保健を受け取る。
これらも、国民の税金の詐欺になるだろうし、「誰でもやっている」事だと思う。
又、靴・傘を盗むのもそうだが、駅前の違法駐輪、道路へのゴミ・煙草のポイ捨ても、「誰もがやっているから、自分もやってよい」という訳では無い。
つまり、「罪の意識」と「清濁併せ持つ覚悟」が重要という事。
今回のゴーマン
今回は、「野蛮」について、と 『わしズム』の宣伝。8ペ−ジ。
「4月10日現在、 パレスチナ情勢は 野蛮化の一途を 辿っている。」
「「テロは絶対悪で 撲滅すべし。 テロリストを 匿う国も敵」という ブッシュ・ドクトリンは、 ついにイスラエルに パレスチナ侵攻・制圧の 口実を与えてしまった。」
ドクトリン(英doctrine):
1.教義。教理。主義。
2.政策上の原則などを示した教書。
(小学館『国語大辞典(新装版)』)
「アメリカの「対テロ戦争」の 口実だった 「民主主義を守るため」 なんてのは、元々 ウソっぱちである。」
「イスラエルのやっていることも、 アメリカのやっていることも、 「戦争のテロリズム化」であり、」
「パレスチナがやっていることも アルカイダがやったことも、 「テロリズムの戦争化」である。」
「どちらも民間人の殺傷を 前提とした攻撃であり、 ルールや倫理は 平然と踏みにじられている。」
こうやって「戦争」の形態がどんどん変わってゆく中で、『戦争論』の同時代はどうなってゆくのか?。
「ブッシュが言い 日本のポチ・ホシュが 唱和した。 アフガン空爆は 「文明と野蛮の戦い」だと。」
これは、嘘。正確には「これは、文明の衝突ではない」「これは、文明とテロとの戦いだ!」である。「テロ、テロリズム」に「野蛮」の意味は無いでしょう。
「わしは、アメリカよりも 日本が好き、という まったく自然な愛国心を 育てるために 新しい雑誌を作った。」
「4月25日、 わしが編集長となって、 漫画から、音楽から ジャーナリズム、エッセイ、 思想までを束ねた 新雑誌 『わしズム』を 創刊する。」
この雑誌の内容については、最後の「おまけ」にて言及したいと思います。
「かつて、左右冷戦の時代には、 共産主義に対抗するため、 右は、新米・反共であり、 一方、左は 反米・親中という 片寄りを見せていた。」
この辺の分析は、正しいでしょうね。それぞれが依存する国旗に包まって浮遊する両陣営の絵が面白い。
右翼 VS. 左翼。とせずに「ホシュ」 VS. 「サヨク」とした所も、センスがある。
反・共産主義者は、現実主義者=現状維持=保守。というライン。
共産主義者は、理屈先行。モデルは、中国・ソ連ぐらいしか無かった訳ですから、現実にはそれらを手本にするしかなかった。
「20世紀の最大の無駄は、共産主義思想の発明とその勢力との戦いである。」
「ソビエト連邦の崩壊により、共産主義国家と言う大いなる実験は失敗した。」
「いずれにしろ 言葉によって作られる 「公的領域」が 狭められているのである。」
「言葉によって作られる 「公的領域」」とはなんぞや?。
論壇が、自分達の内輪だけで通用する言葉や理屈だけに内向化し、客観視出来ない状態に陥り、自家中毒状態になっている事を指しているのだろうか?。
それで、「公的領域」が狭められる…!?。ちょっと、強引過ぎるような。
「この言葉の「公」が 縮み続けると、 大衆は「野蛮」化してくる。」
意味不明。「公的領域」が狭まると何故、「野蛮化」するのかの説明が省略され過ぎている。
「わしはもっと多彩な言葉の 提供の仕方で、 国を語りたいと思う。」
「もうそれは、 わしが「束ねる」ことに よってしか、できないのだ と思う。」
「だから、わしは 本を作ることにした。」
「束ねる」がキーワード。又、一歩「カリスマ」に近づいた^^;。
以下、1ページ半。細かいコマを使って『わしズム』の宣伝とその言い訳。
気になったのは、「他人」が出てこないか、出てきても「セリフ(心情)」を話さない。全て「小林よしのり」の口を通してしか説明されない。つまり、フィルターのかかった「選別された(加工された)情報」しか読者には伝わっていないという事実。
一生懸命、軽いギャグタッチにしようとしているのだが、それが面白くないのは、その辺の「衝突」が回避されている為ではないかと気付く。
で、他のページも読んで見ると全てそうなってしまっている。
今までは、ギャグタッチの部分ではスタッフとの掛け合いなども取り混ぜていたと思うが、伝えたい言葉が多過ぎて、そこまで手が回らないのかもしれない。
これは、危険な兆候かもしれない。「自家中毒」を起こさない事を祈る。
「わしは、もっと 日本人の 知性や感性を 信じたいのだ。」
「本能的な 刺激だけで 売る事はしない。」
「野蛮人を 育てる気は ないっ!」
福沢諭吉の言葉を引用して「文明」とは「国家」および、人の「安楽」と「品位」(「智徳」の進歩)であると説く。
今回のゴーマン