今回は、…。縮小8ページ。
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今回は、2本立て合計16ページ。1話目、9ページ。
まず、小林が「名刺」を持たなくなった理由から、
「日本では 「社会」的評価は関係ない」
「あくまでも 安定した「世間」を 持っているかどうかが 「信用」の重大要素だ」
と結論づける。「社会」と「世間」という言葉の定義に注意しないといけないですね。
「社会」 → 個人の資質。個人として一般に認められているか、有名かどうか。
「世間」 → 「名刺」に代表される、所属している団体や地位のネットワークをバックボーンとした個人。
こんな感じでしょうか。普通の言葉の定義と微妙に意味が違うような気がしますが^^;。
(欄外情報によると、「世間」=「コネクション(connection)」 → 私的なつながり。縁故関係。手づる。コネ。)
「わしは日本では それなりに有名人で ベストセラーに頻繁に 名前を出す作家であり 「社会」的には収入 実績も あるはずと自負していた のだが…」
「哀れなことに マンションを借りる時には 「保証人」なしでは貸してくれない という目にあったものだ」
これって、大企業でも「担保」無しでは銀行が金を貸さないように。例えば、超売れっ子の有名芸能人でも、事業に失敗して大借金を作る可能性はあるわけだから、「保証人」を付けるのは、普通ではないかな?。あれっ、それは「連帯保証人」だっけ?
「保証人」は、身元を保証して、事件や事故、病気などになった時に、連絡する人だったかな?。どっちにしても、「有名人」だから必要無いってものではないような気がする^^;。
命を狙われている(かもしれない)小林にとっては、身元のはっきりした人しか貸さない、「管理のしっかりしたマンション」の方が、少しは安心できて良いような気がするが…。
「特に国立大学や 都立大学の教授から 「公などいらない」 とは言われたかない」
「ましてや 「まず個を作れ」 と言われること ほど 馬鹿らしい ことはない」
「そいつらは わしが払った 税金で食ってる 公務員なのである」
「かくも 「世間」に 安住した 存在が あろうか?」
(中略)
「おまえたちは その安住の「世間」から出て 「個人」で勝負してみろ!」
「個人」で勝負している小林が、「世間」の大切さを説き、「世間」に安住している人達が、「世間」を否定する。この裏返った、対立の構造自体が、良く出来た冗談のようで面白い。
ただ、「個人」で勝負してない「公務員」の例として、「宮台 真司」「姜 尚中」「田中 康夫」「浅田 彰」「福田 和也」と「個人」の似顔絵を描いている時点で既に矛盾が出てきてしまってますがね^^;。
「西洋では 「個人」というものは 「社会」を作る 単位であると 考えられている」
「しかしだよ この日本で 「世間」を捨てて 「社会的存在 のみの個人」に など なれる 度胸のある奴 おるの?」
「帰属するべき 「世間」 寄りかかるべき 「世間」のない 「個人」という 存在は相当に 厳しいぜ」
確かに、そうでしょうね。
「わしは 徹底的な 個人主義者かも しれない」
多分、そうでしょう。
「前世紀末に この「世間」確認カードを 折り曲げたとか言って 日本人全員が 「なんて失礼な」と 怒っていた あれは可笑しかった」
「世間」を擁護する小林が、世間確認カード(名刺)を折り曲げた事は、否定しない。田中康夫が嫌いだからでしょうね^^;。
大体、受け取ったものをその場で折り曲げるのは、名刺に限らず失礼な事だと思うが。
「わしは「世間」を 破壊せよと 主張する立場では ない」
「日本では そのような「世間」と いう中間共同体が 今までうまく機能 してきた面の方が 大きい」
そうかもしれません。ただ、将来的にも「うまく機能」する保証はどこにも無いですね。
硬直化した思考は、時代の変化に取り残される危険性が常にあります。小林も、薄々その事に気付きつつあるようです。
「この「世間並み」を 標準とする感覚が 道を外れる人の予防に なる時もあれば…」
「…他人の意見 他人の目を 意識した行動 しかできない ようになり 突出する者の 足を引っ張ったり 排除したりも する」
「世間」の功罪についても、正確に把握しているようです。
ただ、小林の意見に沿う事象については、「世間」の「功」側。都合の悪い事象については、「世間」の「罪」側。と、我田引水に論理を組み立て過ぎているきらいはありますね。
「左翼勢力のやり口には この「世間の白い目を誘う」 作戦が実に多い 偏見を植えつける工作だ」
「極めて 日本人的なのである」
「世間」を擁護しながら、「世間」に気を付けろと警告を発しないといけないという、アクロバティックな事をしていますね^^;。大変だ。
「『ゴー宣』は あくまでも 小林よしのりという「個人」が 「社会」に向かって 語りかけているのである」
「むろんこの 読者層でも まだ「世間」だ と悩むところが わしの強欲な ところだが…」
??「世間」だといけないのかな?。「皆が、プロフェッショナルを目指せ」と以前描いていたので、「皆が「個人」として自立する事」が、最終目標なのかもしれません。
こうなると、
> 「個人」で勝負している小林が、「世間」の大切さを説き、
> 「世間」に安住している人達が、「世間」を否定する。
> この裏返った、対立の構造自体が、良く出来た冗談のようで面白い。
と書きましたが、実際には、
「個人」で勝負している小林が、「世間」の大切さを説きながら「個人の自立」を促し、
「個人の浮遊」を主張している「世間」の中の、特定「個人」と対立している。
という事になりますね。むむむ、ちょっと、複雑になってきました。(そうでもないか?)
「もともと わしが 「公」などと言い出したのは(中略)」
「「世間」の上位に 「公共心」を持ってこれないのは なぜか? という問いからである」
この出発点は、間違って無いと思います。
「日本では 大衆から 知識人から 官僚から 政治家まで 「世間」の磁場に 捉えられて 「個人」が機能せず 「社会」から意識が 遠ざかる」
つまり、「個人」が機能する事が「社会」(公的)意識を育む…という事でしょうね。つまり「西洋的な個人」の観念ですね。
「それは「国家」を 拒否しようと してきたから ではないか?」
今までの論理展開からは、唐突で意味が繋がらない。
むしろその後の
「「個」と「公」は 対立する 概念ではない」
「だれにもそれを 強制するわけではない 『七人の侍』にだって 命がけで村を守った 侍に 冷たい目を向ける 百姓がいた」
こちらに、繋げた方が意味が通る。誰にでも、「西洋的な個人」を強制できないという意味で。
この意見は、以前私が書いた文章にも通じるものがある。
「しかし「公」のために 「私」を滅する「個人」は 実はこの日本には多いと わしは見ている」
小林の願望ですね。しかも、自分で「死」より「公」と盛り上げておいてから、くるりと論理をひっくり返したような気がしないでもない^^;。
「日本人が 中国人のように なっていいのか?」
「現に今は そっちの方に 向かいつつあるが 覚悟は できてるのか?」
「それとも 「公共心」の ある 「気高い国」 を目指す 気はない のか?」
中国人は「公」がない!。と貶めておいてから、根拠無く「そっちに向かいつつある」と断言して、恐怖感を煽る。感情に訴えた、低レベルな煽動ですね。
今回のゴーマン
今回は、2本立て合計16ページ。2話目、7ページ。教科書採択について。
まず、「教科書の採択」とは何か?という説明。
本来は、採択地域の「教育委員」に決定権があるのだが、「形式的な名誉職」として形骸化しており、実際は日教組などの「赤い赤い 真っ赤に歪んだ カルトなイデオロギー」によって、「利権を放置し 自虐教科書が まかり通る構造が でき上がっている!」
「つくる会」の教科書が採択される可能性が高くなる土台作りを行っているようだ。
「今年は 教科書採択の 結果が出る!」
「各採択地区は 採択の結果を 8月15日までに 文部省に通告する ことになっている」
もう一波瀾ありそうですが、楽しみですね。
「「つくる会」の教科書も 市販される 情報公開する」
「そしてわしの 3年に亘る 教科書運動の 任務は完了する」
これを区切りに「教科書運動」からは、手を引くようです。完全に縁を切れるかどうかは判りませんが…^^;。
しかし、何はともあれ、様々なトラブルを乗り越えて、遂にここまで漕ぎ着けたのは、凄いですね。執念の結晶でしょう。偉い!。放心したような表情が、全てを物語っていますね。
今回のゴーマン