今回は合併号と言う事で、倍増16ページ。チベット問題について。
今回のゴーマン
今回は、小林の近況報告。8ページ。少なく感じる。
まず、断り切れなくて(いやいや)教科書の原稿を書いたという「言い訳」^^;。
そして、JC(日本青年会議所)関係者に「頼る」事にする成り行き。
辻元清美議員からの抗議について。
そして、JC京都会議の慰労会で酔っ払った話。
だんだんテンションが上がっていって、博多ニカワみたいな顔^^;になって、最後にはペーペーと吐く。
「なんでこんなに酒が弱いのだろう? 頭にくる 酒が 好きな くせに 弱いのだ」
あれ?確か、酔っ払いに寛容な日本人の風土を批判した「ごーまん」があったような気が…^^;。
そして、映画館での着信メールからエチケットの話。
「そもそも「個人」とは何なのか?」
「「個」の内実を考えず 「一人一人が自己責任で個人として自立せよ」と 戦後ずっと知識人が 言い続けてきて…」
「その結果 現れたのが 援助交際であり 学級崩壊だった!」
この辺りは、考えて行かなければいけない命題であろう。
「近年の成人式だって 個人 個人が集まったら 「儀式」ってもんが 成立しない」
「だべりのための 寄り合いに しか ならない」
「「公式」ってものがない」
「「私式」しか ない」
「個人の中に 「公」の心(公共心)を 育ててこなかった からじゃないか!」
「儀式」さえやれば、「公共心」が育つのか?
実は昨日、奈良・天理市へ行って来た。ここは、「陽気暮らし」を教義とする『天理教』の総本山で街中に修養場や宿泊施設、学校等があり、天理教の法被を着た信者達が闊歩している。町全体が宗教色を帯びている異空間である。
例えば、商店街を歩いていると半分ぐらいの人は法被を着ている。天理教の宗教着や書籍、新聞を販売しているのを見ていると、突然音楽が鳴る。すると、自転車に乗っている人は降り、家族連れも立ち止まり、90%以上の人が本殿に向かって手を合わせて祈りだす。一瞬ビビルが、これがイスラムだったら当然の事だろう。日本だって戦時中は学校の朝礼で皇居に向かって礼拝をしていた。
本殿周辺では、修養中の若者や老人達がそれぞれに「お勤め」をしている。特に若者が一心不乱に「経」を唱える姿は、他の場所ではまず見られない光景だ。しかし、ここでは「信じる宗教」を持って無い人の方が異常な気がしてしまう。
彼らは、彼らの制服である黒い法被を着ている以外は、何処にでもいそうな普通の中・高生に見える。彼らを駆りたてるものは何か?教育?親の影響?自発的な内的開眼?
親神様の墓参りに来ていた家族連れが、子供に手を合わせるように「教育」している姿は象徴的である。
私も、子供の頃に親に言われて、訳も判らず仏壇に向かって手を合わせるように指導されたものだ。しかし、私は私の子供にそういう「教育」は出来るだろうか?それを子供が受け入れる土壌が今の日本にあるだろうか?そして、そう「教育」する事は正しい事なのか?
実際、彼らは幸せなのだろう。「お勤め」も、嫌々ではなく喜んでやっているのだろう。タクシーの運転手も言っていたが、駅前も勝手に信者達が掃除してくれるので塵1つ落ちて無いそうだ。
彼らは、「親神様」の元に心を1つにして公共心を持って行動しているのかもしれない。
小林の望む世界の縮図がここにあるのかもしれない。
日本中が纏まる為ならば、「国家」や「天皇」ではなく「天理教」でもいいのかもしれない。
しかし、本当に日本中を1つの「色」に染める事が正しい事なのか?
もし、「神道」が力を持ったとして、その時、天理教の信者との関係は?
「さて21世紀は 学級崩壊から 国家崩壊への道を 歩むのだろう もう9割は あきらめている」
1割は、諦めていないようだ。
「…いずれにせよ これで わしは「つくる会」で やれることは すべてやった」
「これをもって わしは「つくる会」 から手を引く」
「JCとは このまま 連帯してやっていく」
「つくる会」には居心地が悪くなって、JCへ乗り換えたと言う事かな?
今回のゴーマン
今回は、猟奇犯罪について。
「自分がコトを やらかした後の 親兄弟のことなど どうでもいいらしい」
「完全に「個人」だ どこにも帰属心を 持たない 殺伐とした 個人たちの 凶悪なニヒリズムが 横行している」
全てを個人の自主性、主体性に任せる「民主主義」。これは、大変な作業であり、ドロップアウトする人は相当いるはずである。逆に、個人の意志を認めない旧来の風習への回帰を願う心も育つであろう。そういうバランス感覚は大事だと思う。どちらかに傾き過ぎると、バランスを崩す。
「「信用」や「信頼」を ベースにした 人との関係性が 切れた個人は 現実社会に対して 意欲や希望を 失っていく それでも自己愛から 自分を取り巻く 環境や社会を呪い 憎悪するようになり 自分の生きる意味を 問い始めて 考えることが 抽象的な 妄想になっていく」
この辺の分析は正しいでしょう。
「そしてあの 酒鬼薔薇の 事件は 異常者の 虚無感に 実存を充てんする ヒントを 与えてしまった」
毒物事件、放火、無差別殺人など、事件が発生すると模倣犯が急増する。前にも書いたけど、想像力のない鬱積を抱えた人間が「流行」の犯罪をそのまま真似する事はママある。しかし、想像力のある犯罪者は常に新しい犯罪を起こすでしょう。それを防ぐ方法は…、共同体?、国家権力(警察)?(しかし、警察は事件が起こってから動くので、本質的に「手遅れ」なんだよね。)
「人間の心の奥底には 腐臭を放つ ヘドロな欲望が 渦巻いている どいつもこいつも 殺ってやろうか という 衝動も わしは 自分の中にある ことを認める」
このコマと次のコマの絵は、狂っててステキ!^^;。
9年間少女を監禁していた事件に絡めて、人は簡単にマインドコントロールされるというの話。戦争での捕虜の発言はマインドコントロールされているという話。
9年間、鍵のない部屋から出られなかったというのはまさに「事実は小説よりも奇なり」だが、やはりかなりのレアケースだと思う。戦争という極限状態も確かに異常なケースですが^^;。
「簡単に洗脳されぬ ように確固とした 「私」を持たねば とか 「個」の確立が必要とか どっかから聞こえて きそうだが そんな「私」や「個」など もともとありゃしない!」
「もし洗脳されぬ 「私」や「個」があると したら それは 宗教・神や国の 歴史に基づく 「価値観」「常識」が きっちり注入された 「私」「個」を 作るしかないのだ!」
「本当の自分探し」というのは、何処かに「本当の自分」という物があるという「幻想」から成り立っている。「本当の自分」とは、「民主主義」の(多分、誤った解釈から発生した)産物である。
それを、宗教や因習が「個人」を作るという逆説で否定する。
「普通に 家族団らんの 時間があること これは相当 大切なことではないか?」
そう思う。
そこから、父権の重要性について。
「こう言うと 母子家庭の読者が 不安になったり 差別だと反発する かもしれない」
「しかし 一面の真理として 認める勇気が なければだめだ」
フォローも、ばっちり^^;。
今回のゴーマン
今回は、『新ゴーマニズム宣言』8巻の宣伝と自覚的ナショナリズムについて。
『新ゴーマニズム宣言』8巻の描き下ろし、「欧州より国を想う」読みました。
突然、アシスタントの漫画が入るのがうざったいですが^^;。
英語を喋るのは、相手に媚びへつらっている事になるから駄目。という論理は、無茶苦茶ですな。大体、英語が必要なのは旅行だけではなく、ビジネスの交渉でも、海外の研究論文を読む時にも必要な事なのに…^^;。
日本の公用語を英語にしようという意見に対して否定的なのは当然でしょうね。
しかし、合理的思考に立って将来の事だけを考えれば、その方が都合の良い事の方が多いでしょうけどね^^;。
移行期には、日本語で育って来た英語の喋れない世代が相当苦労するでしょうが、それを乗り越えてしまえば、複雑な漢字を覚える必要が無くなるし、海外の文献や意志疎通も翻訳無しで出来るようになる。
但し、逆に日本の古典文学や歴史書などは、日本語から英語に翻訳しないと通用しなくなり、日本文化の連続性はその時点で分断される。まさに、国の根幹を消し去る亡国の思想かもしれない。
…実際の所、そこまで合理的になれる人ってどの程度いるのだろう?
私なんかも、歴史にあまり関心無くても、奈良・飛鳥で亀形遺構が出たらやっぱりワクワクしてしまうしぃ^^;。
後、海外旅行は嫌いだとか言いながら、結構行ってるような気がする。しかも、アジア圏ではなく、欧州・米圏が多いような気がしますが…^^;。
閑話休題。
EU加盟国から非難されている、オーストリアの極右政党のハイダー党首について。
「ここで厳密に思想して おかねばならぬことは 愛国心・民族主義 国家・国民主義としての ナショナリズムは これすなわち ナチズムなのか? ということだ」
「ナショナリズムは 全て ホロコーストに 行きつくような 危険なものなのか?」
「わしは否だと思う なぜなら20世紀の 狂気である ジェノサイド(大虐殺)は むしろ共産主義国家 の内部においての方が ひんぱんに行なわれた からだ!」
ナショナリズム=ナチズムも短絡的だが、共産主義=大虐殺も短絡的だと思う。
「(前略)…これらは 民族主義や 国家主義的大虐殺 ではない」
「イデオロギーの 大虐殺なのである」
イデオロギーが人を殺す。というのは正しいと思う。民族主義や国家主義も、当然イデオロギーですよね?^^;。
イデオロギー: 人間の行動を左右する根本的な物の考え方の体系。観念形態。 「〜は社会的立場を反映する」。 俗に、政治思想。社会思想。「〜の相違」「なのに ナチズムほどには 共産主義に対して 強いアレルギーを 世界の人々は 起こさない これは あきらかに おかしいのでは ないか?」
今回は、小林の両親、じっちゃん、ばっちゃんの事。
「ポカQの ばーちゃんが亡くなった」
「どきなさいっ このデブ どかんかーーっ」
危篤状態ならともかく、亡くなった後ならば、幾ら泣き付いても構わないと思うのだが…^^;。
小林のばーちゃんが亡くなり、福岡に葬式に行った話。
「新妻がテーブルの 端から端まで 回って 料理を 小皿に取り分け 夫の元に 運んでやるのを 見てると…」
「博多の ごりょんさん ここにあり 九州男児 ここにありと 思って 頼もしくなる」
「女の権利とか 言いたてる バカは 一人もいない」
言わないだけで、思ってる人は確実にいると思う^^;。
こういう事を描いちゃうと、親戚とも軋轢が起こる可能性があるので、普通は描けないと思うのに、さらっと描いちゃう所が小林の凄い所。腹の括り方が違います。
「ごりょんさん」=「ご両人さん」かな?
「わしは あの 介護保険というやつが どうにも解せんのだ」
「社会主義国みたいに 国や地方行政に頼りきることが いやでしょうがない」
国を守りたいが、国には守られたくない。小林のアンビバレンツな心情が吐露されます。
社会(共産)主義<-->資本主義(自由競争社会)
一党(共産党)独裁<-->民主主義
この場合の「社会主義国」とは、共産主義の事ですね。
但し、本当の自由競争社会だと事業に失敗した人は、のたれ死ぬのが正しいし、金利も「神の見えざる手」に任せるのが正しいのだが、「ブラックマンデー」以降の現代では、強制加入年金や最低生活保障、公定歩合による金利操作など、国家が介入する「社会主義」的な部分も導入されている。
又、中国のように社会主義圏でも、経済特別区や「一国二制度」によって、「資本主義」的な部分も導入されている。
社会主義=悪。資本主義=善。という単純な構図では既になくなっていると思う。
もっとも、小林は「資本主義礼賛」家ではないはずだが^^;。
「親の介護は昔から ずっと家族が してきたのだろう?」
どのくらい「昔」からだろうか?他に選択肢が無かっただけではないのか?姥捨て山というものも、あったし。
「子を作らんかった者は 覚悟せにゃならん!」
欲しくても、出来ない人もいるよ。
介護してもらう為に子供を作るわけでもないだろうし。
「不思議なことだ その曾じーちゃんが 日露戦争で 戦死していたら わしはいない」
(中略)
「わしという個人は 日本という国が 近代化する過程で 幾多の試練に ぶつかり その中で 国の命運を賭けて 戦ってきた男たちの DNAを受け継いで 今 ここに存在する」
「わしの中に歴史があり わしの中に国家がある」
この論理には抜け落ちている部分がある。
1.小林は、軍人として戦い生き残ってきたDNA(遺伝子)を受け継いでいるのかもしれないが、全ての日本人に普遍化できない。戦争に反対して戦ってきたDNAを受け継いでいる日本人も存在するし、そのどちらでもない人のDNAを受け継いでいる日本人も多いだろう。
2.戦争で死んでしまった為に、「生まれて来れなかった」日本人に対する視点がすっぽりと抜け落ちている。さぞかし、無念だった事だろう。端的に言えば、弱者切り捨て。
「自分自身を客観化して 語れない者 自分を語る言葉を 持たない者が いきなり天下国家 だけを語っている時 わしはその者に 不自然さを覚える」
「共産主義や サヨク小児病だって 自分の身の丈 飛び越えて いきなり世界大 ばかり語りたがる からだ」
「自分の見えない 「国家語り」は 不気味である」
この辺りは、その通りですね。
「自分を語って 他人が面白いと 感じてくれないのは その者の 「自分語り」の中に 「公」がないからだ」
この言い切りは、かなり無理がないでしょうか?^^;。
「語り」の面白さと「公」とは無関係でしょう。どちらかというと、技術的な問題でしょう。
「公」があっても、退屈な話は退屈だし、「私」でも、面白おかしく話せば面白い。当たり前。
今回のゴーマン
「わしは わしを語る手法を この『ゴー宣』でとった 情報だけを欲しがっている 知識人や サラリーマンの中には わしが単に自分の エピソードを語ってるだけ としか読み取れぬ人もいるらしいが わしは国家を 情報だけで語っているのではない」